国語教師と歌人、二足の草鞋
そして卒業後、創作活動を続けるために神奈川県立橋本高校に国語教師として赴任する。先生への憧れを生きる糧にしてきた万智にとって、やはり学校は特別な場所だった。
「生きている子どもたちが相手。1人として同じ子はいない。1日として同じ日はないからワクワクする。自分も先生との出会いで人生、節目節目で変わってきた。生徒たちとの時間から、歌が生まれることも多かったですね」
1986年『八月の朝』で角川短歌賞を受賞。歌壇デビューを果たすと翌年、第一歌集『サラダ記念日』がなんと、280万部を超えるベストセラーを記録。“与謝野晶子以来の天才歌人”と評され、時代の寵児(ちょうじ)となった万智は、歌壇にとどまらず世の中にセンセーショナルを巻き起こす。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
デビュー前から万智をよく知る共同通信社の編集委員・小山鉄郎さん(71)がヒット作の誕生秘話を明かす。
「俵さんは日常会話を巧みに切り取った親しみやすさで口語短歌の裾野を一気に広げました。
当初、版元は歌人向けの定価3000円、初版1500部くらいから検討をしていたようですが、社長の鶴の一声で980円、8000部に決定。もし当初の値段のままなら、ベストセラーにはならなかったでしょうね」
教師と売れっ子歌人の二足の草鞋(わらじ)をはいた忙しさは、想像を絶するものだった。
「連日、雑誌やテレビの取材が放課後6時から4本続き、意識も朦朧(もうろう)。土曜日の授業が終わると泊まりがけで地方の書店回りをしてサイン会。さらに週刊誌の連載まで抱え、あの忙しさは今もう1度やれと言われてもムリ」
そんな中、『週刊朝日』の対談連載は、今も忘れられない苦い思い出のひとつ。
「初回のゲストは、世界的な指揮者でもある岩城宏之さん。うまく話題を振ることのできない私を見て“インタビュアーは、聞かれるのを待ってちゃダメだからね”と心配される始末。
その後も大ファンの野田秀樹さん、作家の島田雅彦さん、言語学者の大野晋さん、TBSの石井ふく子プロデューサーと錚々(そうそう)たるメンバーがゲストに名を連ねていました。根がまじめな私は、徹底的に準備をしないとゲストに会えないと思って、早々に辞めさせてもらいました。連載はわずか5回。これは世界最速では……(笑)」
そんな多忙な毎日を送る中、学校で生徒に接する日常が唯一、平常心を保つ砦(とりで)となった。
「歌集を出して教師の仕事がおざなりになったら、本末転倒。生徒も見ている。それまで以上に授業の予習もしっかり準備して授業に臨みました」
一躍、時の人となった万智。修学旅行先で、道行く人からサインを頼まれ、「勤務中なので」と断ると「先生やるじゃん」と生徒から囃(はや)し立てられたことも、懐かしい思い出だ。
「校門のあたりをマスコミの人がうろうろしていると、ほかの先生たちが裏口から車で送ってくれたり、職場にも恵まれました。辞める際も会議の場を持っていただき、“本人が続けたいのに辞めるのは、僕たちのサポートが足りなかったのでは”と話し合ってくれて、いま思い出しても涙が出ます」
しかし、職場の先生たちに必要以上に迷惑をかけていることを痛感する日々。二足の草鞋で1年間踏ん張った後、4年間勤務した職場を離れる決断を下す。