看護師への道を決定づけた「父の死」
1950年7月、秋田県秋田市土崎港の小さな町で秋山さんは生まれた。9人きょうだいの末っ子。父は自宅で税理士として顧客を迎え、母はそれを手伝っていた。友達が遊びに来たり、泊まっていったり、「常に人がたくさんいる家」だった。
秋山さんが高校に入学した16歳の年に父は亡くなった。胃のポリープ手術をするために開腹したところ、がんが進行していたため、胃の5分の3を切除。まわりのがんは、触らずに蓋をしたようだった。その時点で、余命3か月、長くて半年と告げられていた。
当時は昭和40年、当人への告知も、抗がん剤治療もなかった。母と兄にだけ余命は告げられ、家族の中で、父の状態を知っている人と知らない人がいる中、退院後は母が介護を行った。秋山さんがそのころを振り返って言う。
「私は、父ががんだとは知らなかったんです。やわらかいものを食べていたことは知っていたんですが、吐いたりするわけでもなく、“いずれ元気になるんだろう”と思っていたんですね」
ただ、無口で眼光鋭い明治生まれの父が手術後は人が変わったように、母の後ろをついて回り、ひとり言を言うようになった。あとになってわかったことだが認知症を発症していたのだ。
ぶつぶつ何かをつぶやきながら玄関の外に出ていく父に、「どうしてこんな状態に?」と不思議に思い、バカにしたこともある。そんな父を母は当たり前のように介護しつつ、秋山さんには「父親がどんな状態でも、尊敬しなさい」と諭した。
父が亡くなったのは、月曜日。その前日に布団でヒゲを剃っていた父が、翌日に死ぬとは思っていなかった。亡くなる日の朝、母は秋山さんに「道草せず、まっすぐ帰ってきなさい」と言った。もともと、道草をするタイプではない。何かあるのかな、と思いつつ「はい」とだけ答え、家を出た。
「帰宅すると、母が夕飯の支度をしていたんですが、その日は魚だったんですね。母は“魚はしばらく食べられないから、食べておきなさい”と言いました。今にも亡くなりそうな父を察知しながら、しばらく仏事の精進料理のみで魚が食べられない私たちのことを、気にかけていたんでしょうね」
早めに帰宅した家族や近所の医者が、父の枕元に集まった。兄が、何かを知っているかのように泣く。父はゆっくりと息を吸って、吐いて、それを何度か繰り返した後、次の呼吸が途絶えた。
「え、これが、人が死ぬっていうことなの?」
と、秋山さんは思った。まるで何かの儀式のようだった。看護師の義姉が父の身体をきれいにするのを手伝いながら、突然の死を前に、16歳の秋山さんは戸惑っていた。
「四十九日を迎えたころ、母が私に“お父さんは、がんだったのよ”と言いました。“余命3か月と言われたのに1年半かけて世話をしたから、悔いはない”と。でも私は“知っていたら、ていねいに接したし、もっと手伝ったのに”と思ったんです」
父の葬儀にはたくさんの人が参列した。当時の平均寿命は69歳。70歳で亡くなった父は、家族に看取られ、多くの人に見送られ、幸せな最期だった。
命を奪ったのは、人々が恐れているがん。秋山さんは16歳にして、末期がん、認知症、高齢家族介護、家族の看取りのすべてを見ていた。その父の死がきっかけで、秋山さんは看護師を目指すことになる。