子育てをしながら働く看護教員に
東京の聖路加看護大学に進学した秋山さんは、寮生活を始めた。1学年40人で、全学生が150人くらいの小さな大学だったが、実習がたくさんあり、充実したカリキュラムだった。
当時は第2次ベビーブームのころで出産も多く、周産期看護にも憧れ、看護師、助産師、保健師すべての資格を取得した。
大学卒業の前年に、京都で働いていた先輩から声をかけられ、インターンシップとして京都にあるキリスト教系病院の産婦人科で働いた。患者中心を貫いている病院の方針に惹かれ、秋山さんは卒業後もそのまま働くことにした。
4年間、忙しい日々を過ごし、病棟の副看護婦長も務めたが、大阪大学の先生から「看護教育に関わらないか」と誘われ、3年制の医療技術短期大学部の臨床実習の助手として、京都から大阪に通うことに。
学校で講義をするよりも、病院に出向き、内科・外科など4か所を回るような実践的な教育の現場。この当時の学生とは、今でも付き合いがある、と秋山さんは言う。
また私生活では、京都大学で建築の勉強をしている大学院生と結婚。旅行で秋田に来たときに、秋山さんのクラスメートと知り合い、実家に泊まったことのある人だった。年齢がひとつ年下だったからか、夫の親戚には反対されたが、母は「近くにいてほしい」という思いも持ちつつも、賛成してくれた。
その後、京都から大阪大学に通う生活が大変であったこともあり、もともと勤めていた病院付属の看護専門学校でのポストも空いたため、京都で教員になった。
秋山さんは不妊に悩み、子宮筋腫が見つかり手術を受けた時期もあったが、幸いなことに1983年に1人目の子どもを授かり、勤め先で出産。その4年後にも2人目を出産した。
妊娠中は、学生たちにお腹を触らせ、自分のお腹の胎児の心音を聞かせることもあった。産前6週間、産後8週間だけ休み、学校の横にある保育園に入れながら教員を務めた。
子育てに追われながら、公私ともにあわただしい日々を送っている最中、秋山さんに大きな転機が訪れる。
余命1か月の姉に行った在宅ケア
昭和から平成に元号が切り替わった1989年のある日、電話が鳴った。神奈川県に住む、いちばん仲のいい2歳上の姉の夫からだった。姉の夏バテが元に戻らず、病院に行ったら、肝臓が腫れていて、そのまま入院。CT検査で肝臓がんが見つかり、手をつけられない状態で、余命1か月だという。
「どうしたらいいだろう……」と言う義兄。秋山さんは、急きょ休みをもらい、姉のもとへ向かった。まず、病院で姉のCT画像を確認。撮影された画像のすべてにがんがあった。この散らばり方なら手術はできないし、抗がん剤もつらいだろう。
当時、秋山さんには緩和ケアの知識はあったものの、日本には全国2か所しかホスピスがなかった。姉には中学2年生と小学5年生の子どもがいた。子どものそばに少しでも長くいさせてあげたいと思った秋山さんは、「連れて帰ります」と病院に申し出た。
24時間態勢の往診や訪問看護の仕組みはなく、在宅ケアも浸透していなかった時代。ところが、偶然読んだ「家庭で看取るがん患者」という新聞記事に、「ライフケアシステム」という東京・市谷にある組織が、在宅医療・看護のバックアップをしてくれると紹介されていた。神奈川県にもないかと探したが、近くにはひとつもなかった。
ライフケアシステムに電話をして相談すると、「行きますよ」。秋山さんは、姉の在宅ケアのためのチームを作った。必死の思いでつないだ仕組みだった。そこから毎週末、新幹線で京都と神奈川県を往復する日々が始まった。
いちばん仲のいい、余命1か月の、具合の悪い姉のところに行くんだ……。京都から向かう新幹線の中で、そう気持ちを切り替えた。平日は、テレビ電話で義兄とやりとりをしながら「姉が家にいるかけがえのない日々」をつくる努力をした。
「医療者である専門職と、家族や近隣の人というチームで行う在宅ホスピス・ケアでした。大切なのは、チームの真ん中にいる患者を侵食しないこと。そう、姉のことを通じて教えてもらいました」
しばらくして、姉の病状が重くなり、病院に入院。意識がなくなって10日ほどたち、穏やかな顔で姉は旅立った。最後まで家にいられたわけではなかったが、家族と自宅で5か月過ごすことができ、安らかな死に、これでよかったのだと秋山さんは思った。