そんな片瀬さんの脳裏に、長野県に赴任していたとき隣に住んでいた、保険会社勤務の知人・Aさんのことが浮かんだ。
「彼に連絡してヘルプを頼むと、同期を紹介してくれたんです。いろいろ相談していたら、保険会社が契約している長谷川久二弁護士を紹介してくれました。長谷川弁護士は話を聞いてくれて、“民事裁判を起こしましょう”と。それで1996年に裁判が始まり、その進行中に、“工学鑑定をやったらどうだろう?”という話になった」
長谷川弁護士が当時について、こう述懐する。
「片瀬さんは息子さんのために一生懸命やっていらっしゃいましたね。刑事裁判で裁判所が下した判決に、納得いかなかったんでしょう。工学鑑定にも積極的でした」
片瀬さんらは啓章さんの事故について、資格を持った専門家に自動車事故の工学鑑定を依頼。何が起こったのかを科学的に分析してもらおうと決めた。
片瀬さんが言う。
「当時、私は『全国交通事故遺族の会』(現在は解散)に入っていて、いろいろな活動をしていました。大会には有識者などをお呼びして話を聞いたりするんですが、その際に会った方に大慈彌さんという人がいて、名刺交換をしたことがあったんです」
ドラレコ開発の歯車が、少しずつ、回転し始めた。
事故鑑定のプロとの運命的な出会い
大慈彌雅弘さんは、東京・蒲田にある『日本交通事故鑑識研究所』の代表を務める人物。これまでに4000件を超える交通事故鑑定を手がけた、この分野の第一人者だ。
1999年、片瀬さんは大慈彌さんに、事故の工学鑑定を正式に依頼した。
大慈彌さんが当時をこう振り返る。
「片瀬さんは、遺族の会でもベスト5に入るぐらい熱心に活動されていましたね。片瀬さんが真夏の暑い中、目撃者を捜すためプラカードを持って毎日交差点に立っていると聞いて、私も“これはなんとかしなきゃいかん”と思ったのを覚えています」
打ち合わせを重ねるうち、大慈彌さんは片瀬さんに意外な話を切り出した。
「遺族の会を通じて、片瀬さんのように大事な息子さんや娘さん、お父さんを亡くされた方を100人ぐらい知っていました。それで長年、“何かいい方法はないだろうか?”と思っていて、ドラレコのような記録装置の開発を考えていたんです。国内外のいろんなメーカーに打診しましたが、担当者は“それはなかなかいいですね”と言ってはくれるものの、2~3か月たっても音さたなしといった状況でした」
事故鑑定のエキスパートの見識と、大手電機メーカー営業マンの人脈がここで結び付き、スパークする。片瀬さんもまた、同じことを考えたことがあったのだ。
「目撃者捜しで中原の交差点に立っている間、通る車を眺めながら、“誰かが偶然、ビデオで撮っていてくれたらよかったのに……”と思ったことがあったんです」
片瀬さんが続ける。
「目撃者は出ないし、あてにできない。警察も何も話してくれない。そんななかで、どうしたら真実を知ることができるのか? ビデオで撮って残しておくしかない。それにはどうしたらいいんだ? と考えていました」
ビデオのように運転や事故の様子を記録し、後日再生できる装置─。それがあれば事故の瞬間、何があったかを客観的に知ることができる。
実は、ハンドルやブレーキ操作を数値やグラフで記録する装置は、そのころすでにあった。だが、あくまで自動車教習所などの法人が運転特性の分析を目的にしたもので、個人が気軽に買えるような値段ではなかった。
今では1万数千円から購入できるドラレコの誕生は、わが子を亡くした電機メーカー技術者と交通事故鑑定人の、真実を知りたいという強い思いがあったからこそ実現したのだ。