驚くべき半生でも“不満はなかった”ワケ

 現在は結婚し、平和に暮らしているというハミ山クリニカさん。会社員と漫画家の二足の草鞋(わらじ)を履く。

 ほかにも漫画と決定的に違うのは、実際は東京藝大に入学・中退してから、母親の意向もあり、東大(理科二類)に入り直していた、という点だという。ますます壮絶な話だ。

 漫画家として活動し始めたのは、2年ほど前から。そして、家を出るまでの自分の半生を振り返れるには脱出から6~7年はかかったという。

「(漫画の)担当編集者さんが、打ち合わせの際に話した私の半生に、ものすごくびっくりして。“それを漫画にしませんか”と言われて、それまではちょっと違うくらいだった認識が、やっぱりおかしかったんだと確信しました。

 子どものころからそんな状況で暮らしてきたのと、母親があまりほかの友達と遊ばせてくれなかったこともあって、ほかの家の様子を知らなかったんですよ。だから“○○ちゃんの家には○○があっていいな”といった、ほかと比べての不満は持ったことはなくて。でも“うちはエアコンが壊れていて使えないから寒くていやだな”とか“机がまともに使えないから、布団やゴミの上でものを書くのは書きづらいからいやだな”という不快な感情に対する不満はありました

 片づけはできず、常にだらしない。かつ支配的な母親に対しての不満はなかったのだろうか。

「母は、断続的ではありましたが、会社勤めをしていたんですね。洋服は買い漁(あさ)っていたくらいで、いつも同じものを着て出勤していたわけでもなかった。おそらく、あんな汚部屋で暮らしていると想像できた同僚はいなかったのではないでしょうか。

 一応、私を育ててくれているということもあって、いくら理不尽な思いをして“めちゃくちゃだなあ”とは感じつつ、感謝しなくてはいけないと思っていたところもあったんです。素直に憎しみだけ持てれば、もっと早く母のもとから飛びだしていたかもしれません。

あと、私がいい成績を取っていれば機嫌もよかったので、怒らせたくないから勉強をしていましたね。いろんなやり方を考えてなんとか成績を落とさないようにがんばっていました

 そんな努力が実り、東大の門もくぐることができた。

「もちろん母は喜びました。“いい会社に入って、ママを養ってね”と。母としては、恋人でしかなかった父に見放されていたし、私が大企業に入れば確実にお金を持ってきてくれるから安泰! くらいの感覚だったんでしょうね。

 みなさんが“東大、すごいね”と言ってくれるんですが、実際は入れる人数も多い。がんばれば奨学金ももらえるし、授業料も免除になる。ある意味、間口が広いんですよ。私は母にお金の負担をさせたくなかったから、東大に入ったともいえます」