「孤独死=気の毒ではない」
高江洲がよく受ける質問がある。
「幽霊を見たことはありますか?」
「事故物件=幽霊・心霊現象」というイメージはつきものだ。
「幽霊が存在するかどうかは、私にはわかりませんし、見たことはありません。しかし、『死のエネルギー』は感じるんですね。人が病院で亡くなった場合と、自室で亡くなった場合とでは、なぜか部屋から受ける感じがまったく異なります。そこには、死の間際の故人の思いが残っているような気がするのです」
ある意味ではその死者のエネルギーを拭い去ることが、事件現場清掃人の仕事なのかもしれないと言う。
「そもそも“病院で死にたいか、家で死にたいか”と問われたら100かゼロで“家で死にたい”と答えますよね。それが人の本望ではあるわけです。孤独死の場合は、ただ少しばかり発見が遅れてしまっただけのこと。だから『孤独死=気の毒』とはならないはずなんですね」
高江洲は、大切な人を失った遺族をたくさん見てきた。
練炭自殺した男性の両親、心中した母娘を発見した妹、息子が首つり自殺したと伝えてきた父親、入浴中に亡くなり、風呂釜で煮込まれてしまった老女の娘や姪たち……。
悲しみと後悔に暮れる遺族に、こんな言葉を伝えてきた。
「人が死ぬとき、死ぬ瞬間は痛いかもしれないけれど、死んでしまえば、身体が溶けようが虫に食われようが本人は痛くはない。発見した人は気持ち悪いかもしれない。でも、それはただの『状態』にすぎないんです。だから、亡くなった人は上から見ていて“ちょっと汚れちゃってごめんなさいね”と笑っているかもしれませんよって」
そんな高江洲も、30代でこの仕事を始めたばかりのころは「人はなぜ死ぬのか」「生死とは何か」と考えすぎてうつ状態に陥ったことがあった。平然と現場に立ちながらも、周囲には見せない葛藤を繰り返してきたのだ。
「なぜ、自らの精神を削りながらも、この仕事を続けてこられたのですか?」
最後にそう尋ねると、
「なんでだろう……」
と、しばらく黙り込み、こう切り出した。
「心がさ、大きく満たされたんだよね。特殊清掃の仕事を始めて、涙を流しながら遺族の方に両手で強く握手されるようなことが何度も、何度もあって。僕のほうが人として心を大きく満たしてもらった。居場所というか、この現場で、俺は命を使っていいんだと思えたんですよ。使命感なんてものは後からついてくるものでさ」
『この世の始末をしてくれ──』という故人の叫びに耳を澄ませる瞬間、かき立てられるものがある。だから、不安そうに立ち尽くす遺族や依頼主に胸を張って告げる。
「ご安心ください。私が必ずきれいにして差し上げます」
取材・文●小泉カツミ(こいずみかつみ)●ノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある