小学生で初めて作った野菜うどん
実は、レミさんは子どものころから大の料理好き。自然豊かな郊外で、トマトやナス、トウモロコシなど、野菜が成長する様子を間近で見て育った。
父の平野威馬雄さんはフランス文学者で詩人。家には父が主宰する詩の会の仲間が多いときは30人ほど集まり、料理上手な母がもてなしていた。兄と妹はあまり料理に興味を持たなかったが、レミさんは母の横でよく手伝っていたという。
「お母さんがさ、でっかい鍋でカレーを作ってて、私が“早く、早く”って言うと、“カレー粉はよーく炒めないと粉臭さが取れないから、焦っちゃダメなのよ”と教えてくれて。ステーキもいっぺんに何枚も焼くと、フライパンの温度が下がって肉汁が出ちゃうから必ず1枚ずつ焼くのよって、30人分のステーキを丁寧に焼いていた」
包丁は危ないと子どもには使わせない家庭もあるが、レミさんの母は何でもやらせてくれた。レミさんがクッキー作りをして台所を粉だらけにしても、こう言って笑っていたそうだ。
「あらあら、今日もまた派手に散らかしたわね、レミちゃん」
初めて1人で料理を作ったのは小学校高学年のころ。学校から帰ってきて、お腹がすいたが誰もいない。庭になっていたトマトをもいできて、台所にあったピーマン、ベーコン、うどんと一緒に煮込んだ。味付けは塩と黒コショウをガリガリ。
「それが本当においしくてねー。算数なら1+1+1+1は4だけど、料理は足していくと100にも1000にもなっちゃう。しかも、作っているときはいい香りがして鼻でも楽しめるし、ジージー炒める音を聞いたり目で見たり、五感で楽しめるのが料理。あんなに楽しいものはないって学校の勉強より断然楽しかったな」
ガキ大将だったレミさんはよく近所の子を引き連れて、山の中を歩き回った。かくれんぼをしていて、ピカピカ光るきれいな棒を見つけ、つかもうとした途端、蛇だとわかったことも。藁が積まれてベッドみたいになっている上に飛び乗って、夕方まで昼寝をすることもあった。
中学まではのびのび育ったが、高校は進学校の都立上野高校に。
「いとことか、みんなそこだから、私も入るものだと思って、無我夢中で勉強したら入っちゃったのよー。中学の校長先生がさ、うちの父親に“いやあ、まぐれですね”って、言ったって(笑)」
上野高校の近くには東大がある。教師たちはみな東大を目指せと言い、生徒たちは昼休みも勉強している。ピリピリした雰囲気になじめなかったレミさん。
「学校をやめたい」
高2のある日、父の前に正座して恐る恐る切り出した。すると父はあっさり承諾。
「いいよ。やめろ、やめろ」
理由も聞かれなかった。
「こう言われたら、ああ言おうとか、いろいろ考えていたのにさあ。あのときの親への感謝というか、うれしさは忘れられないね」
高校の代わりに、父にすすめられたのは文化学院。自由な教育を掲げ芸術家や作家などを輩出した専修学校だ。レミさんは文化学院に通いながら、声楽家の佐藤美子さんにも師事し、シャンソンの勉強を本格的に始めた。もともとレミさんは歌うのが大好きで、父を訪ねてくる外国人客が持ってきたシャンソンのレコードを聴いては、マネをして庭で歌っていた。
文化学院在学中に、当時、銀座にあった日航ホテルの『ミュージックサロン』のオーディションを受けて合格。シャンソン歌手としてデビューした。テレビやラジオにも出るようになり、和田さんに見初められたわけだ。