『富嶽三十六景』をはじめ、庶民の生活や風景を描き続けた浮世絵師・葛飾北斎。日本国内はもちろん、19世紀の後半にヨーロッパでジャポニスム・ブームが起こってからは、ゴッホやドガなど西洋の芸術家にも影響を与えた。また絵画だけでなく、漫画文化にも貢献している“アート界の巨人”である。
そんな天才・葛飾北斎は、絵に没頭し過ぎて「ザ・変わり者」な人生を送ったことでも有名だ。その背景には「創作に集中すること」また「常に初心を忘れずに向上心を保つこと」があった。
北斎、借用書に「屁クサイ」
北斎は幼いころに苦労をした人物で、12歳ごろから貸本屋の丁稚(でっち)として働いている。この「貸本屋」がキーワードの1つだ。丁稚時代の経験によって大衆の暮らしに触れ、また、寺子屋に行かずとも読み書きができるようになった。さらに、挿絵に興味を持ったことで、6歳から抱いていた「絵を描きたい」という思いが強くなり、絵画の勉強をするように。
その後、19歳で勝川派に入門して浮世絵師・勝川春章のもとで本格的に絵を始め、90歳で亡くなるまで71年間、絵を描きまくる。そんな北斎の人生は、まさに絵を極めるためにあった。その結果、絵画の歴史を変えるような作品をいくつも世に出した。
特によく知られる作品は『北斎漫画』と『富嶽三十六景』だろう。
北斎漫画は1814年、北斎が50歳を超えてから描き始めた作品で、総図数は約3900。彼自身が「漫(そぞ)ろに描いた絵のことだよ」と言う通り、浮世絵に比べて軽快なタッチで描かれている。本来は1巻で完結するはずだったが、売れに売れたため、北斎の没後まで発刊された江戸時代の超ベストセラーだ。
現在の漫画のようにセリフがあるわけではないが、令和のいま見ても笑えるのがすごい。人間と自然に加え、神仏や妖怪などあらゆるものが描かれているのだが、ちょんまげ姿の男性が変顔でおどけていたり、町人がやたらハイテンションで踊っていたりと、何も考えなくても、ついクスッときてしまう。
北斎は、借用書の署名に名前をもじって「屁クサイ」と書くなど、とてもユーモアに富んだ人としても知られている。北斎漫画には、まさに彼のユーモアが詰め込まれているんです。
『富嶽三十六景』は1831年ごろに初版が刊行された。その名のとおり、富士山の版画集である。全46図のなかでも有名なのは、激しい大波と3隻の船、奥にのぞく富士山が描かれた『神奈川沖浪裏』だろう。その波の形状がハイスピードカメラで撮影したものとそっくりだった、という事実は話題になった。
70歳を超えながら、北斎には亀田三兄弟なみの動体視力があったのか。それとも、天才の想像力が現実に追いついたのか……。なぜ再現できたのかは謎だが、とにかく『富嶽三十六景』が画壇に与えた衝撃は大きい。日本画に「名所絵」というジャンルを生み出すとともに、モネやセザンヌなど西洋の大物画家にも影響を与えたのだ。
国内外を問わず功績をあげた北斎は、とにかく「絵を極めること」に向かって突き進む人生を送った。彼は勝川派を去った30代半ばから挿絵の依頼を大量に受注し、弟子もいたが、現状に甘んじてはいない。「初心を忘れないこと」「絵に集中すること」を大事にし、常に新しい表現を模索する”チャレンジャー”であった人だ。
そして北斎は絵に没頭するあまり、ぶっとんだ私生活を送った。例えば、ちまたで話題のエピソードに「30回の改名」がある。彼は勝川春朗としてデビューして、今では葛飾北斎として知られている。しかし宗理(そうり)や戴斗(たいと)、為一(いいつ)、卍(まんじ)など、生涯で30回も改名しては、弟子に名前を譲りまくっている。
その背景にはやはり「初心を忘れないため」という考えがあった。決して葛飾北斎という名前にあぐらをかかない。自分を常に刷新することで、絵に対して謙虚であり続けたのだ。
そんな彼が70歳を超えてから名乗った号が「画狂老人卍」。もはやキラキラネームとか、そういうレベルではない。あまりに攻め過ぎている。歳を重ねたとて、彼の心は若かった。謙虚に絵に挑み続けた姿勢が、このユニークな”号”にもあらわれている。