「私、漁師になりたい!」何度門前払いされても諦めない小柄な女性を弟子にとったのは老漁師だった。孫ほどの年の差がある女性はやがて独り立ち。先天性脳性麻痺だった姉の自死を引きずりながら、細腕で一家を支えるママ漁師になった。引退した師匠と亡き姉。海へ出ると聞こえてくる2人の声に耳を傾け、新たな挑戦へ―。

素潜りでは身体ひとつで海の中へ

 6月1日。葉山の漁師にとっては特別の日、素潜り漁の解禁日がやってきた。

 葉山唯一の女性漁師・長久保晶さん(35)は、ウエットスーツに着替えると、水中眼鏡とフィンなどの道具を手にして颯爽と船に乗り込んだ。

「獲物はサザエやアワビ。特にアワビは単価が高いから気合が入ります。数ある漁の中でも、素潜りがいちばん好きですね。身体ひとつでできるし、何より海の中は楽しい!」

 晶さんの操船する船は、真名瀬港から相模湾へと舳先を向ける。

 朝8時ごろに出港して5、6時間潜ることもある。いきなり深く潜ると身体への負担が大きいため、2mほどの浅場から始めるのが素潜り漁の掟だ。

「徐々に身体を慣らしていき、8月くらいになると深く、長く潜れるようになるんです。最大13mぐらいまで潜ったこともあります」

 最初のポイントは、浅瀬に海藻の生える岩場。船のエンジンを切ると、晶さんは右手におこしを持って海へ潜る。

 おこしとは、金属の爪が柄の先についた道具。岩肌に吸いついたアワビをはがすように起こし、岩陰に隠れるサザエを掻き出す、素潜り漁には欠かせない漁師の必須アイテムのひとつだ。岩に引っ掛けながら海の中を移動する際にも使うという。

 晶さんは、獲物を手にすると海面まで上がり、海に沈めた網に獲物を入れ、大きく息を吸うと再び海へ潜る。

 アワビは意外と素早い。狙いを定めていても、息継ぎをするわずか1分足らずの間に岩陰に隠れてしまうこともある。素潜り漁はハンティングなのだ。

 漁師になったばかりのころ、晶さんには苦い思い出がある。

タコ漁をしていたとき、よく獲れる場所にたこつぼとたこかごを仕掛けていたら、ほかの漁師さんが真横に船をつけてきたことがあって。誰がどこにかけてもいいことになっているけど、ちょっと常識的に考えられない近さで、腹が立ったことがありました」

 漁師同士は、仲間でもあるがライバルでもある。互いに「今日はどこに潜ったのか、どこに仕掛けたのか」「収穫はどれくらいあったのか」探り合うのも日常だ。

 解禁日の初日は、2か所の漁場をめぐって、アワビ23個、サザエ30キロ、トコブシも少々。今年初の素潜り漁にしてはまずまずの収穫だった。

 だが、こうした毎日が続くわけではない。天候が崩れると、身の危険にさらされるため漁は中止。晴れても潮の流れや波風、水の透明度によって海に出られないこともある不安定な仕事だ。

 晶さんには素潜り漁のシーズンが始まる前、必ずやっている験担ぎがあるという。

「龍神様が祀られた赤い鳥居が目印の名島に船をつけ、素潜り漁の安全と豊漁を祈願するんです。今年は解禁日に波やうねりがなかったから、無事にお参りできました。

 それと……もうひとつ。師匠のもとを訪ねること。今年は挨拶に行ったら、私の顔を見ても、最初は誰だかわからなかったみたい。『四郎さん!晶だよ』『潜り、始まったよ』って話しかけたら『おお晶か』って思い出してくれた(笑)」

 晶さんが師匠と呼ぶのは、葉山で半世紀以上にわたって漁師をやってきた矢嶋四郎さん(85)。今は引退しているが、晶さんは10年ほど前に四郎さんに弟子入りを許され、漁師になれた。

 四郎さんは最近、外に出ることもままならず、家で過ごすことが多くなった。そんな師匠のためにも、豊漁を願い、晶さんは海に潜る─。