とりあげた赤ちゃんに声をかける言葉

 爆撃で夫の父を亡くし、自宅も焼け出され、悲しみの中で終戦を迎えた。

 ’43年4月に結婚し、その2か月後に召集令状が届き、戦地に行っていた夫が、’46年に復員してきた。’47年、よしゑさんは長男を出産。

「この子が成人するまでは絶対に生きる」

 と心に誓った。その翌年に「稲垣助産院」を開業した。

稲垣さん(前列左から2人目)が初めてとりあげた子どもと母親(前列右から2人目)
稲垣さん(前列左から2人目)が初めてとりあげた子どもと母親(前列右から2人目)
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「(京都)舞鶴港に引き揚げてきたという人のお産に立ち会ったこともあります。行き場がなくて防空壕の中で暮らしていた妊婦や、河原で産んだ女性もいました。みんな生きていくのに必死。戦後の混乱期に出産費用が払えない人もいましたけど、必死で子どもを産んだんです」

 どんな状況下でも産み育てる母親のたくましさに、よしゑさんは寄り添ってきた。

「終戦直後、お母さんたちは自分が食べなくても、どうにか子どもに食べさせようと命懸けでした」

 戦争でたくさんの死を目の当たりにしてきたよしゑさんは赤ちゃんをとりあげると、

「長生きしてよ」

 決まって、そう声をかけるという。「子どもだけじゃありません、お母さんにもです。長生きしてくださいって」

 親子が恐怖から逃げ惑うことなく、飢えることもなく、笑いながら暮らせる時代。

「今はとっても平和。空襲だってありませんしね」

 子どもと孫に囲まれ、幸せな日々を送る。40代で亡くなった母の分まで、よしゑさんは戦後を生き抜いている。

※2017年取材(初出:週刊女性2017年8月15日号)