「私がいないほうが二人にとっていいんじゃないか」
そして2020年2月、新型コロナウイルスの蔓延が始まり、志保さんは在宅勤務を余儀なくされたのです。筆者は「それなら娘さんの世話ができますね」と聞くと、志保さんは「それが……」と前置きした上で続けます。手慣れた様子で食事や着替えを用意し、ランドセルの準備をし、「気をつけてね」と声をかける夫の姿を見るたびに気後れしたそう。そして「私の出る幕はないわ」と躊躇(ちゅうちょ)したのです。すでにできあがった夫と娘さんとの関係を前に臆してしまったと話します。
さらに志保さんは家庭内で孤立していきます。2020年5月、志保さんの部署で感染者が発生したのですが、判明したのはたまたま志保さんが出勤した日。しかも、感染者は隣のデスクでした。濃厚接触者に認定されなかったものの、何があるかわかりません。志保さんは家族へ感染させないために2週間、ホテルに宿泊するという隔離を自主的に行ったのです。
筆者は「旦那さんと娘さんは上手くやれたんですか?」と質問すると、志保さんはまた「それが……」と答えます。隔離先で志保さんはどうしても娘さんのことが心配でした。そこで「様子はどう?」と尋ねると夫は「寂しがったりしていないよ」と返し、「元気にやっている?」と聞くと「何の問題もないよ」と答えるのです。志保さんは夫と娘さんの二人の生活が成り立っていることにショックを受けたと言います。
「むしろ私がいないほうが二人にとっていいんじゃないかって」
そして帰宅した志保さんは娘さんとの溝を埋めるべく、二人きりで再開したばかりのディスニーランドへ遊びに行ったそう。「今までごめんね」と謝る志保さんに対して、娘さんはよそよそしい態度で「早く帰りたい」とこぼすのです。もしかすると夫が志保さんの悪口、愚痴、不満を吹き込んだのかもしれませんが、志保さんは娘さんが夫側の人間だと感じざるをえませんでした。
追い打ちをかけたのは娘さんの何気ないひと言です。突然、「離婚するの?」と聞かれたそう。志保さんはただただ驚くしかありませんでしたが、志保さんは反射的にこう尋ねてしまいました。「もしそうなったらママとパパ、どっちと暮らす?」と。筆者はこのようなシチュエーションで子どもは大半の場合、母親を選ぶことを知っています。しかし志保さんによると、娘さんは「パパと暮らす」と答えたのです。ついに志保さんは娘さんが自分より夫との絆が強いことを確信したのです。
志保さんが親権を持てば、娘さんから父親を奪うことになります。もちろん、志保さんが親権を渡せば、娘さんは母親を失うことになりますが、どちらがいいのか。何回、何十回と自問自答しても頭が整理できず、筆者に助けを求めてきたのです。志保さんと筆者はLINEを十数回往復した末、最終的には親権を譲ることを決めたのですが、それは心理的な理由だけでなく、経済的な理由も大きかったのです。
妻が親権を持った場合、今の収入を維持できない
夫はもともと東大卒で大手製薬メーカーへ入社したエリートで、結婚時は釣り合いがとれた夫婦でした。ところが結婚2年目、夫は激務に耐えきれず、心身のバランスを崩し、休職せざるを得なかったのですが、志保さんはちょうど妊娠中。出産後、夫が退職したことで、志保さんが夫の看病と長女の育児を同時に行わなければならず、「気が狂いそうでした」と振り返ります。それから2年後、夫は定時で帰れる楽な職場がいいと今の仕事に就いたのです。学歴に見合わない仕事ですが、途中から夫が育児の役割を取って代わり、今に至ります。
そんなわけで夫は志保さんの年収(950万円)の3分の1(330万円)の年収しか稼いでいなかったのです。筆者は「娘さんのことを考えると、離婚するからといって環境を変えないほうがいいですよ」とアドバイスしました。娘さんが住み慣れた家、使い慣れた部屋、そして通い慣れた通学路と、気心の知れた担任と友達。それらを守るには今の家に住み続けるしかありません。
もし、仮に志保さんが親権を持った場合、現在の収入を維持できるでしょうか? 今まで夫が担ってきた家事や育児を一手に引き受けなければなりません。離婚しても「元夫婦」で家事や育児を分担するのが理想ですが、現実は違います。離婚後、籍を抜き、別々に暮らし、最低限の連絡しかとらない中、「元夫」がわざわざ手伝いに来るケースはほとんどありません。実際には「面会」という名のもとに毎月1回程度、子どもと会い、食事をしたり、買い物をしたり、公園で遊んだりするのが関の山。つまり、志保さんが親権を持った場合、現在の勤務形態を維持することは難しく、時短勤務へ移行するしかありません。
志保さんが試しに職場へ確認したところ、毎月の手取りは8万円も下がるそうです。そして今まで夫が負担していた食費(月5万円)も払わなければなりません。もちろん、夫に対して養育費を請求することは可能ですが、家庭裁判所が公表している養育費算定表にお互いの年収を当てはめると月2万円が妥当な金額です。養育費を決めるにあたり採用する年収は原則、今年ではなく去年です。筆者は「奥さんの年収は時短後ではなく前の数字を使うので、養育費はこんなに安いんですよ」と助言しました。
夫から少々の養育費をもらっても、収入減や支出増のほうが大きいので、今と比べて11万円もマイナスです。今の生活水準を維持するのは難しいでしょう。つまり、志保さんが親権を持った場合、買ったばかりの家を持ち続けることは難しく、離婚したら出て行かなければなりません。