『ザ・ベストテン』は、レコード売り上げ、有線放送リクエスト、ラジオ放送のリクエ
ストチャート、番組に寄せられたはがきのリクエストの合計ポイントによって、毎週独自のトップ10(=ベスト10)を選定していた。
生みの親と呼ばれるプロデューサーの意思
視聴者が求めるリアルなランキングを届ける情報性……言わば、“視聴者ファースト”を徹底したことが、人気の要因だと語る。
ランキングだからこそ、選ばれたアーティストを追うため、地方のライブ会場まで押しかける。“追いかけます、お出かけならばどこまでも”を売りにした中継は、『ザ・ベストテン』の名物の一つになったほどだ。
「ベストテンは少数精鋭で作っていた。どんな中継先でも、基本的にディレクターは一人。そのディレクターが現地のスタッフ、つまり全国各地のTBS系26局ネットのスタッフとタッグを組んで、アーティストを追いかけていた。TBS系列のネットワークを駆使して、毎週生放送でお伝えしていたわけですから、構造的には情報番組や報道番組と同じなんです」
ときには、冬期休暇中の黒柳さんを追うためにニューヨークへと飛んだ。「TBS の音楽番組で衛星中継を最初に行ったのはベストテン」と松下さんが語るように、『ザ・ベストテン』は視聴者のための流汗淋漓(りゅうかんりんり)をいとわない番組だった。
そういった姿勢は、『ザ・ベストテン』の生みの親と呼ばれるプロデューサー、故・山田修爾さんの存在が大きかったという。
「記念すべき第一回目放送の際、当時絶大な人気を誇っていた山口百恵さんが、集計の結果、トップ10外になりました。『山口百恵を登場させない新番組の歌番組があるか』と局内でも大きな議論を呼んだと聞きます。
しかし、山田さんはインチキはしないと譲らなかった。また、山田さんはベストテンを始める際にゴルフを辞めたと仰っていた。芸能プロダクションに誘われてゴルフをすると私情が入ってしまったり、特別な関係になってしまう……あるいはそういう噂を立てられるからとゴルフを断った。
黒柳さんは、そういった番組の姿勢や方針を気に入って司会を引き受けてくださった」
それゆえ、「口パクの類も一切なかった!」と松下さんは断言する。