「体力作家」が打ち込んだ映画製作
作家活動のスタートは、同時に取材旅行の始まりでもあった。
'84年、水中写真家の中村征夫さんと、オーストラリアのグレートバリアリーフで1か月間、生活を共にした。
「彼とは出会ったときから意気投合しましたね。乗船した船は、フランスのダイビングボートでね。乗員は30人くらいで、僕ら以外はみな、フランス人。出てくるメシがフランス料理なんですよ。
俺たち肉体労働だから腹が減って、“こんなもの食ってられねえ”って。それで2人で船室を漁ったら、米が見つかった。キッコーマンの醤油を誰かが持っていて、もっと探したら生卵が見つかった。2人で米を炊いて、卵かけご飯を食べましたよ。“やっぱ、米だよな”なんて言いながら握手したのを覚えてます(笑)」
テレビのドキュメンタリーとして放送されたこの出会いは、'91年公開の映画『うみ・そら・さんごのいいつたえ』につながっていく。
椎名さんの映画作りは、年季が入っている。'75年以降、16ミリの記録映画を数多く作ってきた。'90年の『ガクの冒険』でメジャーデビュー。さらに『うみ・そら〜』には、余貴美子さんら本職の俳優陣が出演。それでも、撮影監督は中村征夫さんが務めた。
「中村征夫の写真集を原案にした映画だったし、彼は陸上(撮影)はやってなかったんだけど、“陸も海も一緒だよ”と僕が言って、無理やりやってもらったんです」
石垣島での撮影は1か月半。作品は、北海道から沖縄まで全国で巡回上映し、口コミで評判が伝わり15万人以上の観客を動員した。
「最初は学生映画みたいなものだったけど、勢いというのはすごいもので、『ガクの冒険』が大手配給系の劇場でガーンとかかったんですよ。そのツテがあるから、『うみ・そら〜』では、最初から1週間やったら結構客が入って、3週間のロングラン上映になった。池袋と渋谷、それから大阪にものびていってね。
それでガンガン勢いづいて、『ホネフィルム』という会社まで作っちゃった。僕はあのころ、社長だったんですよ。とてもそんな柄じゃないから秘密にしてたんだけどね」
とはいえ映画だけに専念していたわけではない。雑誌連載、さらには新聞連載まで抱えていたのだ。
「朝日新聞で『銀座のカラス』を連載してました。石垣島のロケ現場にゲラ(校正刷り)が届くんですよ。40度近い暑さの中で毎日毎日、原稿を書いて、3日くらいするとゲラが来る。1度も穴をあけずにやりました。あのころの俺ってまじめだったんだなって。でも、結構楽しんでいましたね。若さもあったし、僕は“体力作家”と言われてましたからね」
撮影現場には、100人ものプロの映画スタッフがいた。彼らの目には、「モノカキ」は、あまりいい印象には映っていなかったようだ。
「演出部なんかは特に、僕が原稿書いたり、ゲラ読んだりしてるのが嫌いでね。自分たちの映画に全部打ち込んでほしいわけ。映画の現場は体育会系が多いですから、結構荒っぽいやつらもいる。結構こっちも場数を踏んでいるんで、おかしな自信があって、“いつでもやってやるぞ!”というような感じでした、常に。だから、当時はむき出しの狂犬みたいで怖かったという人もいますね(笑)」
その後、椎名さんは'93年にモンゴルとの合作映画『白い馬』で日本映画批評家大賞最優秀監督賞を受賞、さらにフランス・ボーヴェ映画祭でグランプリを獲得する。ところが'96年の『遠灘鮫腹海岸』を最後に、映画製作の世界に別れを告げた。
「ちょっとアクシデントがあって、嫌気がさしてやめようとなった。やっぱり映画界というのはね、外側から入ってきて、僕みたいに暴れ回るとね、そういうのを嫌う気配があるんですよ。それは今になるとわかるんですけど“何だ、このトーシロは”みたいなね。古い業界だから。映画ってみんなハングリーだから、僕みたいなのは羽振りがよく見えたんでしょうね」
面と向かって誰かが言ったわけではないが、椎名さんはそうした「気配」を感じ取ったという。
もちろん、「新しい作品を」という声もあった。
「ポーランドで撮らないか、ハワイでこんな企画でどうか、という誘いはいくつかあったんだけど、結局、話が大きすぎて手に負えなかったり、ほかの仕事ができなくなるので断りました」