生前、「女に落語はできない」と公言していた談志さん。だが、一方で「男にできて女にできないものなんて、ない。男が勝手につくってダメになったのが今の世の中なんだから、女が変えていくしかないだろう」という発言も残していた。実は、フェミニストの視点を持つ人でもあったのだ。
ゆみこさんが父について一貫して口にするのは「家にいるときもずっと立川談志のままだった」という事実だ。とはいえ、家族でしか語れない談志像もあるはずだ。
「『ザ・ノンフィクション』を見てママと私が思ったのは『私たち2人はわりとつっけんどんで、パパがいちばん家族を愛していたね』ということでした」
「立川談志の娘」は嫌だった
ゆみこさんが東京・銀座でクラブを経営していたころ、談志さんもしばしば店を訪れた。そういうときはすべてのテーブルを律義に回り、お客さんを楽しませ、マイクを握って小噺を披露することさえあったという。
「お店からお客さんに出す周年のDMは、死ぬまでずっとパパが書いてくれていました。それを今読んだら泣けちゃう。『馬鹿な娘を持った親父は大変です』『こんな高い店に来てくれてありがとう。御礼を申し上げます。父、立川談志』って」
談志さんの父としての顔が最も色濃く表れたのは、ゆみこさんが20歳のころのエピソードだ。彼女は知人の芸能事務所社長のすすめでラジオ番組のオーディションを受け、合格する。芸能界デビューを果たすものの、まだ若かった彼女は、既婚男性と恋に落ち、駆け落ちしてしまった。仕事をすっぽかしたゆみこさんを庇いきれなくなった所属事務所は、本人に無断で引退を発表した。
「私の引退を報じるスポーツ新聞を読んだら自分が犯罪者になったみたいな気がして、パパに電話したんです。『ごめんなさい、大変なことになってしまったようです』って。すごい怒られると思ったら『何も心配するな。おまえの代わりに俺が戦ってやる!』って。
その後、本当に1人で私の引退記者会見を開いて『うちの娘は頭がいいから、芸能界のウソを見抜いたんだよ』って言って。そんな変な親います!? あのときは『ありがとう、なんていいお父さんなんだろう!』って思いましたけど(笑)」
自身の経歴を質問された際、ゆみこさんは必ず「立川談志の娘」という肩書を名乗る。
「若いころは嫌で、隠していたんです。お父さんが高倉健さんだったら、子どものころから『私の父は~』って言ってたかもしれないけど(笑)。自分から『談志の子です』って言うようになったのは、特にパパが亡くなってからだと思いますね。『立川談志という人がいて、こんなに面白い落語家だったんだ』ということを継承者として世に伝えていきたいという思いがすごくあるから」
それほどの気持ちがあるのなら、ゆみこさんが談志さんの跡を継ぎ落語家になる道もあったと思うのだが……。
「ないよお! 悪いけど落語の面白さは今だってあまりわからないですもん(笑)。私たちは自分で選んだわけじゃなく、たまたま立川談志の子として生まれたわけじゃないですか? でも、お弟子さんたちは自分で師匠を選んだ。だから、立川談志への思いはお弟子さんたちのほうが強いんじゃないかな」