上京、入学、中退……本格的な役者の道へ

 1974年、18歳の吉岡さんは桐朋学園短期大学に演劇専攻9期生として入学する。

「西調布にあった安い風呂なしアパートを借りて、仙川の学校まで通っていました。僕はそれまで大人に囲まれて芝居をやっていたから、学校でもひとりだけ生意気で。そんなに周りとペラペラしゃべらなかった」

 吉岡さんの2期上には、俳優の観世葉子さんが在籍していた。観世さんが振り返る。

大学の2年先輩だった観世葉子さんとは一緒に舞台をやり、『おしん』でも共演を果たした
大学の2年先輩だった観世葉子さんとは一緒に舞台をやり、『おしん』でも共演を果たした
【写真】オープン当初から行列が絶えなかった、吉岡祐一さんが渋谷・スペイン坂で始めたクレープ店

「私の仲のよい同級生が吉岡くんと親しくて、その関係で知り合いました。とても自然体で、最初からお互い気を遣わずに接することができた、気持ちがいい人。それは今も変わらないです」

 自主公演で折口信夫の『死者の書』を企画した観世さんは、吉岡さんに声をかけた。

「“やってくれない?”と頼んだら、すぐに“うん”と引き受けてくれて、道具を組むのも吉岡くんがやってくれたんです。でも若さの勢いとはいえ、よくあんなわけのわからない作品をやってくれたなと(笑)。吉岡くんはキリッと演じてくれましたよ」

 卒業後は音信が途絶えたが、のちに『おしん』で共演することに。観世さんは、おしんの夫の兄嫁・田倉恒子を演じた。

「まったく違うパートだったので撮影では会わなかったけど、名前を見て、芝居をやってるんだなと安心しました。吉岡くんの芝居は理屈でこね回したりしないで、自分の感性でスッと素直に役に入っていけるんです。だから最近、再会して役者をやめていたことを知って、ずっとやっていけそうな人だったのに、と思っていました」

 1年生のときから学内で注目されていた吉岡さんは、自主公演で安部公房の作品『時の崖』を取り上げる。主人公のボクサーが、試合でKOされてしまう一人芝居だ。

「役作りで3か月、ボクシングジムへ通いました。結構強かったみたいで、ジムの人に“プロテストを受けないか?”と言われ、あわててやめたほど(笑)。『時の崖』は練習風景から始まって、ずっとシャドーボクシング、試合のシーンまで舞台に出ずっぱり。40分の間、衣装はグローブとパンツとシューズだけで《向うの崖を落ちるか、こっちの崖を落ちるか、それだけのちがいじゃないか……》などと延々言い続けるんです。いやあもう、キツかったぁ」

 舞台は成功。先輩たちから激賞され、打ち上げ後も興奮冷めやらず、学校のグラウンドを雨の中、ワーワーと吠えながら走り回ったという。

「濡れた服を着替えて、雨のグラウンドを見つめていたら、本当にシュウッと音がするような感じで精気が抜けていきました。それで、もういいかなぁって」

 役にのめり込みすぎて、燃え尽きてしまったのだ。

「いつもそうなんです。何か役をもらうじゃないですか。そうすると四六時中、そのことしか考えてないから、飯は食べなくなるし、その代わりに酒飲んで。周りが見えなくなっちゃうんですね」

 引き止める先生たちを振り切って大学をやめた吉岡さんは、尊敬していた演出家・竹内敏晴さんの門を叩いた。

「夜中に竹内先生の自宅を訪ねたんですよ。すると、優しく受け入れてくださって“ご飯食べたか?”と。そのうえ“今度、芝居やるから、よかったらのぞきにこないか”と誘ってくれたんです」

 独自の身体論をベースにした『竹内レッスン』で教え込まれた吉岡さんは、「芝居ってこんなにキツイのか」と痛感したという。

「セリフってただ言葉を発するだけじゃダメで、“僕はこうしたい”ということが自分の身体の中に今、生まれたものじゃないといけない。それが相手に届いて、反応して、積み重なってドラマになっていく。竹内先生の著書『ことばが劈かれるとき』にも書かれていますけど、口先だけだと徹底的に見抜かれる。

 だから芝居って、嘘がつけないんですよ。深いところで人間性が出てしまう。僕は不器用だから、いっぱいに想像の翼を広げて、自分にできるだろうかといつも悩みながら稽古していました

 そんな吉岡さんを劇作家の清水邦夫さんが目に留める。1976年、渋谷ジァンジァンでの二人芝居『花飾りも帯もない氷山よ』に抜擢。吉岡さんは「苦い思い出です」と述懐するが、竹内門下生として頭角を現していく。

 同年、渋谷ジァンジァンのすぐ近くで創業したのが、吉岡さんが長年にわたってアルバイトをしていた『マリオンクレープ』だ。紙の容器に入れて片手で食べるスタイルを考案、日本にクレープという食べ物を根付かせた創業者の岸伊和男さんは「吉岡は最初からすぐに陣頭指揮を執って、威張っていた」と笑う。

「クールだけど芯は熱い男でね。すぐ店長をやってもらったんだけど、やる気のあるやつを使うのがうまかったな。『おしん』で吉岡は意地悪な兄を演じていたけど、店でも同じくらい迫力があったし、アルバイトを働かせるため、少々芝居がかったところもありました」(岸さん、以下同)

 当時、マリオンクレープには役者や歌手などを夢見る人が多く働いていた。突然入るオーディションや、いい役に決まったらシフトを融通してもらえる文化があったからだ。それは「おもしろい人を集めて、おもしろいことをやるのが好き」という岸さんの考えによるもの。吉岡さんはさまざまなアイデアを出し、クレープを効率よく提供できるスタイルを確立。吉岡さんが叩き出した1日の売り上げ記録は依然破られていない。

「吉岡は次の世代へいい影響を残してくれた存在。喜怒哀楽が強いタイプでね、しょぼくれると、すごくしょぼくれるんだけど(笑)。僕にとってはカンフル剤みたいな、元気をくれるおもしろい男だね」