タップダンスを武器に、高見青年は東京へ。父親の芸のサポート役から、歌とダンスを見せる芸人として本格キャリアをスタートさせた高見さん。初めての仕事はキャバレーの営業だった。まもなく日劇ミュージックホールに出演。新聞記事でも取り上げられ一気にスポットライトが当たるという華々しいスタートを切った。ギャラもとんとん拍子に上がったそう。
「キャバレーの楽屋へ帰ってきたら、出番を待っているお姉さんが『月世界の芸人みたい』と褒めてくれたりね。ある時は歌舞伎役者の八代目松本幸四郎さん(のちの初代・松本白鸚)がね、お弟子さんたちに僕のことを『あの方はすぐにひとり舞台をやるような人になります。その姿を目に焼きつけてきなさい』と言ってくださったりしたそうなんですよ。見事にのぼせちゃって。でも、その予想は見事に外れてしまいました。日劇の舞台の3度目はなく、そこから4年間、ほぼ失職状態になったんです」
NHKとの運命の出会い
血気盛んな20代には、“ひま”な時間は重すぎるもの。たびたび死を考えるほどだったという。
「スタートは華やかでしたが、すぐ自分が普通の男の子だってことを思い知らされたんです。親父は僕をずいぶん買いかぶっていましたから、自分が出演する舞台で僕を使うのは『あなたみたいなひとりでちゃんと演れる人を、こんなつまらないことに使ったらもったいないから』と手伝わせてもくれなくなって。鬱々とした日々が続きました」
25歳、心機一転して東宝ミュージカルスの研究生になるも、大部屋俳優に慣れてはいかんとほどなく脱退を決めた。そんな折、運命の出会いがついに訪れる。
「NHKの『不思議なパック』という番組の、最終回のバックダンサーとして呼ばれましてね。テレビスタジオは初めてだったんですが、われながらうまく踊れたんですよ。帰ろうとしていたら、プロデューサーから声がかかったんです」
その誘いとは、NHKで新しく始まる音楽番組の司会。しかも出演するのは超一流の歌手ばかりという大抜擢! そのときに芸名を「高見映(えい)」として、新番組『音楽特急列車』がスタート。羽根飾りをつけたダンサーを従え、シルクハットをかぶった高見さんがステップを踏む。すでに大物の風格を漂わせていた。
「第1回の放送は、相当うまくやれたんですよ。なのに、プロデューサーにNHKの上層部から電話がかかってきたんです。あれは単なるレビューショーで“局辱”だと……。プロデューサーはクビになり、番組自体も半年ほどで打ち切りになりました」
しかし、番組終了後も、NHKとのつながりは続いた。番組の構成や振り付けをしたり、作詞家として1行300円で詞を書いたり、ダンサーとしていろんな番組に呼ばれたり……。気づけば32歳。2つの出演依頼が高見さんの元へやってきた。
「ひとつは新しい音楽番組でリズムものをやりたいと。女性のダンサーとコンビでした。もうひとつは『造形番組』で、出る人物は私ひとり。好きなことがやれそうと、迷わず後者を選んだ私に、周囲は不思議そうな顔をしていましたね」