父がジャズトランペッターだった桑野信義は、幼少期から楽器に触れて育ち、高校卒業後、プロのトランぺッターとなった。
そのころ、幼稚園からの幼なじみでシャネルズ(現・ラッツ&スター)のリーダーだった鈴木雅之からある相談を受ける。
「“テープを持っていくから、仕事の前に会って俺たちの音楽を聴いてくれ”と言われて、渋谷の楽器店でリーダーと待ち合わせをしました。そして、ロックンロールやドゥーワップっぽい音楽を聴かせてもらって“サックスがやめて困っているから、こんな感じでできないか?”と言われたので“できますよ”と」
しかし、デビューを目指して活動していたわけではなかった。
「ヤマハの『イーストウエスト』というコンテストに出て、優勝したらバンド活動をやめようという話をしていました。でも、それに出たことがきっかけで、大瀧詠一さんなどがライブハウスに見にきてくれて。それで“CMソングを歌ってよ”と頼まれて、アマチュアのころによく歌うようになりました。そして、パイオニアの『ランナウェイ』というラジカセのCMソングを歌うことに」
志村けんさんの弟子に
これが、後にミリオンセラーを記録する曲となる。
「CMソングだったので、最初から1曲まるまるあったわけではなく、できていたのはサビの“ランナウェ~イ”などの数十秒だけ。その曲が評判になり、レコード会社の目に留まったんです」
とはいえ、もともとはコンテストで優勝したらやめると決めていたバンド。すんなりデビューとはいかず……。
「リーダーがみんなを集めて“どうしてもって言われてるよ”と言うので、みんなで話し合って“1曲だけ出して、それが売れなかったらやめる”という条件を出して、『ランナウェイ』のフルバージョンを作ってデビューしました」
いつしか、音楽活動だけでなく、バラエティー番組にも進出。
「今の事務所の会長が、当時ザ・ドリフターズとよく一緒にいて“おもしろいバンドがいるんだ”とすすめてくれて、加藤(茶)さんや志村(けん)さん、高木ブーさんがライブを見にきてくれていました。来てくれるとなると、メンバー同士で“じゃあ、髭ダンスやろうか”と話して(笑)。それで、志村さんが『志村けんのだいじょうぶだぁ』を立ち上げたときに、俺と田代(まさし)くんに声がかかって、志村さんの弟子になりました」
'20年には鈴木雅之アーティストデビュー40周年の記念ツアーに参加を予定していたが、コロナ禍で延期に。そんな中、秋に桑野は大腸がんの宣告を受けた。
「とりあえず家族と会社、マネージャーには言いました。あと、リーダーと、リーダーのお姉さんの鈴木聖美さんにも。でもやっぱりはじめはショックが大きかったようで“乗り切れよ”としか言えない感じで……」