大物政治家が愛した料理
1956年1月、道場さんは、高級料亭が立ち並ぶ赤坂でもひときわ名のある『赤坂常盤屋』で働き始めた。当時の料理長は日本和食界の重鎮と呼ばれる人物。その後継として道場さんが選ばれたのは、28歳のときだった。
「道場くんに後継は務まらないだろうというのが大方の見方。だけど、絶対に務め上げてみせると思ってね。『常盤屋』には10年いたのかな」
『常盤屋』は出張の多い料亭だった。明治記念館、衆議院議員食堂、第二議員会館、電電公社の寮……。総理官邸へ出向く機会も多かった。海外の要人をもてなすため、氷の彫刻の周りに料理を置き、屋台を作って鯛の活き造りを飾る。いかに日本の文化を知ってもらうか、楽しんでもらうか知恵を絞った。
「だから、パーティー仕事はうまいもんだよ(笑)。鳩山一郎さんのところには、毎年正月になると大きな重箱をお届けしてね。からすみなんて10本ぐらい切り出して入れて。店によく来てくれたのは岸信介さん。慶應病院に入院されたときは弁当もよく届けた。
歴代総理大臣の中には、ストリップ好きということで、髪を島田に結った着物姿の芸者衆を呼んでいたな。若い衆や詰めている記者連中が『俺も見たいなあ』なんて言っていたよ」
第18回オリンピックの東京開催につながる第3回アジア大会が1958年に東京で行われた。明治記念館で打ち上げの宴席を担当した際は、天皇の料理番として知られる秋山徳蔵さんと出会った。『食味評論』を主宰した多田鉄之助さんや、料理評論家として独立する前の岸朝子さんと出会ったのも『常盤屋』にいたころだ。
「そういった方々20人ぐらいに来ていただく集まりがあってね。そのころの自分の献立を見ると、あんまりよくないなと思うのよ。俳句になぞらえて料理を作ったり、ひな祭りだからと包み筍を五人囃子に見立てたり。そのころはそれが日本料理だと思っていたんだけど、ごてごてしていて、今だったら絶対にやらないね」
大人の社交場・赤坂で、多くの出会いを果たした道場さん。しかし、最も大きな出会いは、生涯の伴侶となった歌子さんとの出会いだろう。
「僕が入る前年から彼女は帳場を担当していたんだけど、仕事ができる人でね。頭もよくて、おしとやかだった。あのころの板前は寿司屋のツケだ、吉原だって付き合いがあるから、給料が入ったとしても右から左。彼女のところに行って、前借りを頼むうちに付き合いが始まって、出会った年の11月23日、勤労感謝の日に神田明神で結婚したの」
ほどなくして、長女の敬子さん、次女の照子さんが生まれた。『常盤屋』に勤めている最中ではあったが、いつかは自分の店を持ちたいと考えていた道場さんは、駅前に1300室もある公団住宅が建ったのを機に、祖師ヶ谷大蔵に高級惣菜の店を出す。
「お店を構えるほどの力はまだないけれど、惣菜屋ならと思って、貯めていた200万円を店の保証金や冷蔵庫やなんやの什器に充ててね。だけど、ダメだった。ちょうどそのころ、冷蔵庫や洗濯機といった家電が出てきたわけよ。みんな月賦に追われておかずを買うところまで手が回らない。そのあたりの読みが甘かった。商売するには事前の調査が必要だと思い知ったね」
丁寧に作った惣菜5品を木の弁当箱に入れ、警察署や消防署、病院に80円で届ける。ところが、届けた弁当箱を回収して、洗って、乾かして、惣菜を作ってもひとつあたりの儲けは30円にも満たない。利益は少なく、労力がかかるばかりであれば、先細りになっていくことは目に見えている。『常盤屋』を辞め、店をたたむ決意をした道場さんの手元に残ったのは、保証金の一部のみだった。