ビートルズにお忍び取材
音楽も好きで、ジャズ喫茶にも入りびたり、音楽雑誌『スイングジャーナル』を読むうち、自分も書いてみたくなり、19歳のときに初投稿。
「私はこのころのモダンジャズに対する価値評価に、時折不安を感ずることがある」と書いた投稿は採用となり、1959年に掲載。翌年の4月にも掲載された。それらが反響を呼んだことで、編集長から電報が届き、書く仕事を依頼されるようになった。
そして'61年、来日したアート・ブレイキーのインタビューのオファーを受ける。
「“英語で取材できますか?”と聞かれたときに、“はい”と答えて。私はいつもできますと言ってから勉強するんです(笑)。でも英語で会話しながら、メモをとる自信はない。録音して後で聞きたいと、当時はトランクぐらいの大きさだったオープンリールのテープレコーダーを探して、月賦で買いました。
それから、母が私と結婚してほしがっていた人は英語が堪能だったので、質問の英文を作ってもらったり、録音したテープを一緒に聴き取って、書き起こしをしてもらったりして。それでなんとか原稿を書き上げることができたんです」
やがて、音楽専門誌からだけでなく、いろんな媒体から執筆依頼が舞い込むようになった。
「まだそのころは女優の仕事もしていて、大阪の生放送番組に出ていたりしたんですけど、書く仕事のほうがやりがいがあったんで、そちらに専念することになりました。
当時の音楽評論の世界は、もう圧倒的な男性社会で、コード進行がどうとか、歴史的背景がどうとか、理論づけした記事でないと評価されなかったんですね。でも、私は“キャー、素敵!”っていう素直な気持ちを書いた。 お世話になったジャズ評論家の福田一郎先生からは、“感想文を書いちゃダメだよ、感想は聞き手のものだから。『感動』を書きなさい。女のおまえさんはそれが許される。そのかわり資料は徹底的に調べて書くんだよ”と教えていただきました」
'66年ビートルズ来日。そのとき、直接取材に成功したことが、大きな分岐点となる。
「世界的スターのビートルズは、“髪の長い不良の音楽だ”と政治家や大人たちから、武道館公演を反対されました。コンサートは結局行われましたが、今考えると、外国から可愛いオスが入ってきて、自分の国のメスがキャーキャー言ってるのが面白くなかったんでしょうね(笑)」
湯川さんは特別号のキャップを任され、直接取材が期待されたものの、自由に質問ができない公式記者会見以外、接触は許されなかった。
「前々から取材をお願いしてたんですけど、まったく実現する様子がなくて。聞けば、彼らは外国のメディアと独占契約をして、公式会見以外、一切取材は受けられなくなっていました。食事の席をセッティングしてくださったそうですが、厳戒態勢のためビートルズは一切外出禁止になってしまって。会えないまま、もう明日帰っちゃうところまで切羽詰まって。
ビートルズを日本に招聘したプロモーターの永島達司さんが、“彼らが警備員の腕章を欲しがってるそうだから、ファンとして部屋に届けて”と口実を考えてくれたんです。腕章とカメラを準備し、“後は君の腕次第”と言われて送り出されました」
つまみ出される危険もあったが、行かなければ何も始まらない。ひと言でも言葉を交わせればいいと思い、指定の部屋に行った。
「部屋に入ると、ついたてがあって、その向こうからまず飛び出してきたのはポール(・マッカートニー)でした。“君どこからきたの?”と聞かれて、“どこからかしら?窓から入ってきちゃったのかも……”なんて、わけのわからないことを答えて(笑)。彼らはずっと外出禁止で退屈してたんでしょうね。腕章を渡したらすごく喜んでくれて、それからは気さくに話してくれました。
ジョージ(・ハリスン)に子どもが生まれるという噂話が出てたから、“本当なの?”と聞いたら、“殺されなければね”なんて答えてくれましたが、実際には妊娠もしていませんでした。
ポールが“何か飲む?”と聞いたので、“紅茶をください”と言ったら、“ジョージ、紅茶を持ってきてあげて”と指示してくれて。当時から場を仕切っていたのはポールでしたね。最後は大好きなリンゴ(・スター)と一緒に写真を撮ってもらいました。
そのとき、ジョン(・レノン)だけは意地悪で(笑)。向こうのほうのソファの隅に座って、眼鏡越しにこっちを観察してる。そのくせ、私が見ると、そっぽを向くんです。後に、ジョンがオノ・ヨーコさんと結婚して、仲よく話せるようになったときに、“あのときあなたは意地悪だったわ”と言ったの。そしたら、“ごめんね。あのころビートルズのそばまで来れるのは特別に権力やコネがある人間だから、信用できなかったんだよ”と言われました」