女の人たちに認められたい思いで
生のビートルズの様子を描いた貴重な記事は、評判となった。しかし同時に批判もあびる。当時は、音楽業界も男性中心社会。女性が活躍するには、多くの壁があった。
「部屋にまで押しかけて取材するなんてと批判する人もいました。“音楽業界の温泉芸者”なんてひどいあだ名もつけられました。でも、キャー素敵!って気持ちを言葉にできるのが強みですから。“女だから取材できたんだろう”って言われたら、“それで何か悪いのでしょうか?”って」
湯川さんに憧れて音楽評論家となった今泉圭姫子さんはこう語る。
「ジャーナリストとしてのスタンスを守りながら、愛のあるミーハーでい続けているところが、れい子先生の素晴らしいところだと思います。
2019年、コリー・ハートが育児休暇を経て、復活コンサートを行うことになったとき、コリーから“れい子と一緒においでよ”と誘われて、れい子先生と一緒に、ライブを見にカナダのケベックまで行ったんです。そしたら、ライブの最中、突然コリーがれい子先生を呼んでステージに上げて、“愛すべき日本のママです”って1万人のファンの前で紹介したんです!
会場から大きな拍手が起こって、終演後、れい子先生は現地のファンに“ママ”と囲まれて大変でした(笑)。こんなにアーティストからもファンからも信頼されている人はほかにはいません」
'60年代後半から、洋楽関係のアーティストの信頼を得て、活躍の場を広げた湯川さん。しかし職場環境はまだ整っておらず、セクハラ、パワハラを受けることも少なくなかった。ラジオ番組のDJとしても活躍しはじめた湯川さんに、ラジオブースの向こうから、エンガチョで卑猥なポーズでキューを出す男性スタッフまでいたという。
「でも生放送で動揺するわけにはいかないから、私は眉ひとつ動かさずに、笑顔でクールに進行しました」
男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年、湯川さん50歳のとき。でも、そのずっと前から女性たちは戦ってきた。
「ただ私には戦ったという感覚はないんです。確かに私が働きはじめたころ、98%は男性という状況でしたが、その男の人10人のうち6人は話せばわかる人なんですね。そのうち2人くらいは、すごく味方をしてくれる。あとの4人は女を信用しない人。
あからさまに排除はしないけど、女がいると夜遅くまで仕事できないし、外れてもらおうという考え方をする。そのうち2人ぐらいは明らかに女に敵意を抱いていたり、口説く相手としか見ない人もいます。そういう相手とは確かに戦ったのかもしれないけど。私はむしろ女の人たちに認められたい気持ちで努力したのだと思います」
東日本大震災のチャリティーコンサートなどで湯川さんとともに活動をしているシンガーのクミコさんは、湯川さんのことを「ジャンヌ・ダルクのような存在」だと言う。
「女性が働いたり主張したりすることが、今よりずっと大変な時代から、湯川さんは美しく戦ってこられた。この美しくって、キーワードだと思います。髪振り乱す人より美しい人の言葉のほうが魅力的ですものね。
仕事で旅行もご一緒したことがありますが、一度もスッピンのお顔を拝見したことがない。湯川さんはいつでも“湯川れい子”という類いまれなブランドを保っていらっしゃる。それでいて、どんな相手にも毅然とした態度を崩さず、おかしいと思うことをおかしいと言える。美しさと社会的な調整力を両手に持ち、女性の新しくしたたかな道を指し示してくれた、素晴らしい先人だと思います」