小さな息子のデモ行進
音楽評論家、DJ、作詞家として多方面で活躍していた湯川さんは、30代を迎えたころに、新しい人生を考えるようになった。
「徹夜して原稿を書いて迎えた朝に、カタカタと牛乳配達の自転車の音を聞いたとき、突然“子どもが欲しい”と思うようになったんです」
大好きなエルヴィス・プレスリーを見るツアーで知り合った男性に、自らプロポーズして36歳のときに結婚。それがこの記事の冒頭に登場した“元旦ちゃん”だった。そして、40歳のときに長男を授かった。出産前日、長年担当したラジオ番組『全米トップ40』を録音。「絶妙のタイミングで生まれてきてくれた、親孝行の息子のおかげ」で1度も番組は休まずにすんだ。
しかし、働きながら子育てするのは、楽なことではなかった。そのころ、湯川さんのもとで働いていたライターの和田靜香さんは当時の様子をこう語る。
「息子さんが小学生のころ、湯川さんが作詞した『六本木心中』や『恋におちて』が大ヒットしていて、猛烈に忙しかった。外での仕事も多かったし、自宅にいるときも締め切りに追われていることがほとんど。
息子さんが学校から帰ってきて甘えようとしても、“今、ママは原稿を書いてるから”と、相手ができないこともよくありました。すると、息子さんはバーッと自分の部屋に駆け込んでいく。シッターさんはいましたが、フォローできない部分もありますからね。
夫は家事や子育てにまったく協力的ではなかったし。湯川さんは人に弱みを見せないタイプなので、良妻賢母を周りも本人も求めて、対外的には華やかに振る舞っていたけれど、葛藤があったんじゃないかと思います」
湯川さん自身は、そのころのことを、
「子育て優先の生活をしていたつもりなんだけど、そういうときにかぎって、魅力的な仕事が入るし。息子はとても繊細で、私がどうにもしてあげられないことも多かったですね」
と振り返る。
「フリオ・イグレシアスの取材をしに、アメリカに行こうとしたときは大変でした。迎えの車が来たので、トランクを持って出ようとしたら、6歳の息子がソファを動かしてバリケードを作ってて、1人で“アメリカ反対”とデモをしてたんです。私を引き留めたかったんでしょう。もう胸が締めつけられるような思いで、“ごめんね、ごめんね”と言いながら出発するしかありませんでした」
月日は流れ、息子さんは成人し、音楽関係の仕事に就いた。そして、プロモーターとして、フリオ・イグレシアスの日本公演招聘にも関わった。
「最初は内緒にしてたらしいんですけど、フリオが来日したときに“実は湯川の息子です”と打ち明けたら、フリオが“なんだ、俺に似てないじゃないか”って言ったんですって(笑)」
先日出版した自著『時代のカナリア 今こそ女性たちに伝えたい!』(集英社)の最後には、子どもを背負いながら、ひっつめ髪で仕事をしていたときの写真を載せた。母としてがむしゃらに働くカッコ悪い姿をあえて残したいと、湯川さん自らが選んだのだという。