銀座の成功から一転した大阪での開業
まさしく激動というにふさわしい信子会長の半生。その中で、「もっとも感慨深い時代を挙げるならいつですか?」と質すと、「焼き肉店時代かな」とポツリとこぼす。
「努力ではなんともならないことが多くて、人生でいちばんつらかったときやったから」
'90年代後半、バブル崩壊の影響が色濃く反映し始めたことで、銀座の景気は誰の目から見ても下り坂だった。店を構えてから約10年。潮時を感じていた信子会長は、夫を交通事故で亡くした妹や老いていく両親との時間を有効に使うために、大阪に戻ることを考えた。
「大阪で違うことにチャレンジするんやったら、夜の商売以外と決めていました。幸治くんもいるし、普通の飲食店がしたいと考えていたんです」
くしくも、友人から居抜きの焼き肉店の話が舞い込んだ。資金を出し、自分たちで運営することを決める。
「1999年8月に『焼肉かうかう倶楽部』をオープンしました。私たちの社名、カウカウフードシステムはここからきてるんです」
リーズナブルな価格での食べ放題などで、お客さんを呼び込んだ。その結果、店は軌道に乗り始め、6店舗を有するまでに発展する。ところが──、ここ日本でも狂牛病問題が取り沙汰されるようになる。あの吉野家が、牛丼の販売を'04年2月から'08年9月まで販売中止にしたほどの騒動であった。
当然、その影響は2人の店にも飛び火した。
「お客さんが来ないから売り上げはほぼなし。スタッフは雇えない。情けなくて、悔しくて……」
膨れ上がる借金。店舗は本店のみにし、身体的にも経済的にも極限状態で働き続けた。成功したはずなのに、再び人生がひっくり返った。

「幸治くんは、仕入れの途中に高速道路で、車をぶつけられたこともあった。でも、店があるからって病院に行かへんのですよ。
店に出すキムチを自分で漬けながら、私みたいなおばさんを捨てて、幸治くんはどこかに行ってくれてもいいのにと何回思ったか。彼はまだ30歳くらいですよ。不憫でね」
声を震わせながら、ひとつひとつ噛みしめながら、あのころを思い出す。
「一度だけ、母のところにお金を借りに行ったことがあったんです。持ってきた母は、私に投げつけ、『拾え』言うんです。泣きながら、『私も悔しい。その金のありがたみと重みを覚えとけ』って。帰るとき、バックミラーに映る杖をついた母の姿を見て、自分はなんて情けない女なんだと涙が止まらなかった」
試練は、まだ終わらない。唯一稼働していた本店が、不審火によって全焼してしまったのだ。建物のオーナーは、居抜き物件の持ち主だったため、信子会長たちが火災保険による見舞金を受け取ることはなかった。残ったのは、莫大な借金のみ。
「もう終わりや思いました」

1人では立ち直れなかった。でも、傍らには幸治さんが居続けた。そして、諦めていなかった。幸治さんが振り返る。
「一体いつまで狂牛病に翻弄されるかわからない。だったら、もう焼き肉店はなくなったのだから、違うことをすればいいと思いました。運よく銀行からの融資があったので、その資金をもとにできる範囲で新しいことをしようと伝えました」(幸治さん)
このとき、時代は飲酒運転に対する罰則が強化され、段階的に施行されていた。2人は、ロードサイドに酒を提供するような店舗をつくることは厳しいと考え、喫茶店に活路を見いだす。フランチャイズ契約ではあるものの、200万円から始められる和風喫茶の募集を見つけるや、即断即決した。

「そうと決めたら会長の“なんとかしてしまう力”はすごい」と幸治さんが笑うように、新事業『甘味茶寮川村』はオープンする。全焼から5か月後のことである。当然、多額の借金を抱えたまま。だが、信子会長はこう笑い飛ばす。
「やるいうたらやるしかないんですよ。絶対に這い上がってやる言うてね」
頬を伝っていた涙は、すっかり乾いていた。