母の“命”が指し示してくれた料理人への道
岡田さんが料理人の道に進んだのは18歳のとき。母の死がきっかけだったという。
「当時、僕は大学浪人中で。将来何になりたいという夢もなく、大学を出てサラリーマンになろうと考えていました。それが突然、母が病気で亡くなって……。
うちは3人きょうだい。僕は長男で妹と弟がいます。それまで家のことはほぼ母がやっていたので、誰もご飯を作れなくて。仕方なく、できあいの惣菜を買ってきたり外食したり。
そんな生活を送っていたら、弟が毎晩吐くようになったんです。僕も母を失ってきつかったけれど、弟はまだ小学2年生、お母さんに甘えたい年頃なのに、かわいそうで……」
病院で診てもらっても原因がわからない弟の病気は、「食生活が原因かな?」と岡田さんは気づいたという。
「じゃあ僕が料理を作れるようになろう、と。浪人中でフワフワした状態の僕に、『食の道へ進みなさい』と、母が命をかけて伝えてくれたメッセージのようにも感じたんです。まぁ、そういうふうに捉えないと、母の死を自分の中に落とし込めなかったのです」
大学進学はやめて、料理人になることを決意。家庭で食べるのは和食だからと、地元の割烹(かっぽう)料理店の門を叩く。
このときの岡田さんの料理の腕前は「アジを見てもアジとわからない、りんごの皮もむけないレベル」と苦笑する。
「でもゼロの状態でスタートしたのが、逆によかった。毎日やればやっただけ技術が身についていきますから。りんごの皮がきれいにむけた、そんな小さな達成感がモチベーションになり、次々にできることが増えていく。それが楽しかった。僕の中では、このころは自分がどんどん伸びていく成長期でした」
学生時代の岡田さんは、本人いわく「通知表はオール3タイプ」。人より秀でたものが何もない少年だった。
「だから料理という特技ができることがうれしかったんです」
とはいえ、上下関係が厳しい料理人の世界。つらいこともあったに違いない。
「確かに厳しかったし、怖い先輩もいました。1回だけ遅刻して殴られたことも。1秒でも遅れたらアウトですから。あと、魚には苦玉という胆のうがあるのですが、『うまいから飲んでみろ』と飲まされたことも。すっごく苦い! これはイジメというより意地悪ですね。その程度のことはあったけど、基本的に先輩を立てて、ちゃんと挨拶をしていたので、そんなにいじめられるようなことはなかったです」
学生のころから敵をつくらず、誰とでもうまくやっていけるタイプ。コミュニケーションは得意だったという。
「ただ、先輩たちにへこへこと従っていたわけではありません。職人の世界は『仕事ができるやつが上に行く』と教えられた。だから僕は一生懸命に自主練習をして、先輩に勝負を申し込んだんです。
例えば穴子を開くという仕事がある。どっちが早くきれいに開くか、という勝負をして、先輩たちを倒していった。まぁ半分遊びみたいなものですけど。先輩は『おまえ、すごいじゃないか。練習したんだな』と認めてくれました。技術で勝負すればケンカにはならないんですよ」
岡田さんの仕事への情熱と向上心は際立っていたのだろう。ある先輩が、その後の道を拓(ひら)くアドバイスをくれた。
「『おまえみたいな感性を持っているやつは、芽を潰さないうちに、東京で修業したほうがいいよ』と言ってくださったんです。自分では地元の店でそこそこ満足していたのですが、そうなのか、と思って。20歳のとき、東京・秋葉原の寿司屋に移りました」