順風満帆なスケート人生に見えるが……。
「これだけの戦績を残している羽生選手ですが、当時は今以上に練習環境に悩まされ続けていたんです」(同・スポーツ紙記者)
その詳細を、スポーツライターの梅田香子さんが教えてくれた。
「羽生選手の最初のホームリンクは『コナミスポーツクラブ泉』でした。しかし、経営難のため閉鎖してしまうという話があり、そこで練習していた選手やそのご家族は、リンクを存続させるためにとにかく手を尽くし、署名活動もしていました」(梅田さん、以下同)
同期に勝てず悔しい思いも
羽生も、その活動に参加した。
「当時は、ホリエモンこと堀江貴文さんがプロ野球球団『大阪近鉄バファローズ』の買収に名乗りを上げたころでした。堀江さんが仙台に来ることを聞きつけて、リンク存続のためスポンサーになってほしいとお願いするために、新幹線の駅で堀江さんの到着を待って嘆願書を手渡したのです」
しかし、当時はまだフィギュアの注目度が高くなかったことが災いした。
「堀江さんは、嘆願書を受け取りはしたものの、返事はなくあっさり無視。結局『コナミスポーツクラブ泉』は閉鎖されました。コーチや有力な選手たちは、環境が整っている名古屋への引っ越しを決めていたので、残された選手たちの間には“もうスケートはやめよう”という空気がありました」
その後、羽生は『勝山スケーティングクラブ』に練習拠点を移すことに。
「アクセスが悪かったので、しっかり練習することができなかったようです。小学生から中学生にかけての時期は、練習量が物を言う世代。そのため、同期に勝てず悔しい思いをすることもあったでしょう」
そんなときに、かつてのホームリンクが『アイスリンク仙台』として復活。
「'07年の出来事でした。しかし、営業時間が短かったり、製氷車がなかったりと手探りで運営している状態。選手たちは大変だったようです」
練習環境が整っていない場合は、別の地域や海外に合宿に行く選手も多いという。