「僕は石原都知事にだまされた」
その期待を石原慎太郎都知事(当時)の記者会見での言葉が後押しした。
「(取り違えについては)時効といえば時効だろうが、それで当人が納得できる問題ではない。(中略)人生をかけた問題だから一般化せずに、こういう特例中の特例というものに国はまじめに、真摯(しんし)に応えて力を添えなければならない」
そう言明してくれたのだ。
都知事の言葉にも勇気づけられ、江蔵さんはDNA鑑定を受けた直後から始めていた、戸籍受付帳の開示請求にさらに力を入れ始める。
そもそも戸籍受付帳とは何か。子どもが生まれたら、生まれた子どもの両親の氏名をはじめ、子どもの名前、住所、誕生日を行政機関に報告しなければならない。
報告を受けた行政機関は、戸籍とは別に、届け出順に子どもの名前と誕生日、住所、両親の氏名をまとめた受付帳を作る。これが戸籍受付帳だ。
江蔵さんの誕生当時は出生地の区役所、すなわち墨田区が戸籍の受け付けを行っていた。
そこで作られた戸籍受付帳を頼りに、江蔵さんが生まれた1958年4月10日の前後約1か月の間に生まれた男の子を調べ上げる。転出があれば転出先を追いかける。そうすれば、取り違えられた可能性がある子どもを探し出すのは手間はかかれど、それほど難しいことではない。
江蔵さんは戸籍受付帳の開示を求め、最高裁に上告することもできた。だが、当時の石原都知事が「情報公開に応じないのは問題。国はまじめに真摯に応えて、力を添えなければならない」と明言してくれている。江蔵さんは明るい気持ちで成り行きに任せ、上告しないこととした。
ところが、希望は無残にも打ち砕かれる。高裁判決後、石原都知事が定例会見でこう言ったのだ。
「(実の親探しは)プライバシーの問題もあって難しい。賠償金の支払い以外、都にできることはない」
「事を荒立ててほじくり出して、傷口を広げるばかりでどうなるものではない」
まさに手のひらを返したような変節だった。
「僕はだまされた。石原都知事にだまされたと思いました」
と、江蔵さんは当時を振り返って言う。
さらに2005年に全面施行された『個人情報の保護に関する法律』(個人情報保護法)も逆風となった。都や区に調査を願っても、取り違えられたもう一方の家族のプライバシー保護を理由に、拒絶の姿勢を強めていったのだ。
都の対応に納得できない江蔵さんは戸籍受付帳の開示を求め、新たな訴訟の提起を決意する。だが、弁護士の見解は芳しくない。
「そもそも都に取り違えの事実を認めさせ、賠償を求めるために起こした裁判。都の誤りが認められ賠償が支払われた以上、できることは何もないという話でした」
戸籍受付帳の開示を求め、江蔵さん自身も墨田区にかけあったものの、開示されたのは江蔵さんの名前と住所を除いて、すべて黒塗りだった。実の親を知りたいのなら、不利を承知で調査を求める訴訟を起こすより方法はない。
江蔵さんは腹をくくった。