立ちはだかる個人情報保護法の壁
新たに訴訟を起こすなら、まずはこちらの意向を受けて裁判に臨んでくれる代理人弁護士を探さなければ。しかし、どの弁護士を訪ねても、返ってくる言葉は判で押したように同じだった。
「個人情報保護法があるし、裁判が終わっているから(新たな提訴は)無理ですね」
40~50人の弁護士を訪ね歩いたすえの2020年夏、江蔵さんは宇都宮健児弁護士に相談することを思いつく。
日本弁護士連合会元会長であり、同年夏の都知事選に出馬した宇都宮弁護士は、人権派として知られる。江蔵さんは都政に強い関心を寄せるこの弁護士にかけたのだ。
この間の経緯を、前出の海渡弁護士が代弁する。
「都知事選が終わる直前に宇都宮先生の事務所に相談に来られて。宇都宮先生は“こうした難しい案件は、都知事選で選対本部長をやってくれた海渡ならやってくれるかも”と話を振ってくれ、それで僕のところにいらしたんです」
だが海渡弁護士は、江蔵さんから話を聞けば聞くほど難しさに頭を抱えたと、当時の心情を打ち明ける。
なにせ目の前に立ちはだかるのは、個人情報保護法という高いハードル。大勢の弁護士に断られたのも無理はなかった。だが、江蔵さんの苦難に満ちた人生と深い思いは、百戦錬磨の弁護士の胸をも揺さぶるものがあった。
「江蔵さんは中学にも通えないほど悲惨な状況だったというのに、まっすぐに育った紳士。育てのお母さん(チヨ子さん)がやさしい方だったのがよかったんでしょうね。
僕の事務所へ相談に来たときは、また断られると思ったんじゃないかなあ。僕もすぐには“受けましょう”とは言わなかったと思います。まずは判決文をよく読み、どういうことが可能か一緒に考えてみましょうということで、長い長い打ち合わせを始めたんです」(海渡弁護士)
2021年4月、「出自を知る権利」を武器にした訴状案が完成。その趣旨を海渡弁護士はこう話す。
「子どもには自分の親が誰なのか知る権利があります。子どもの権利条約には“子には親を知る権利があり、その父母によって養育される権利がある”という条項もある。加えて東京都は産院の管理者であり、出産契約の当事者。その両面から見れば、都には被害者である江蔵さんの実の親を探し出す義務があります」
前出・長沖さんも海渡弁護士の言い分を裏付ける。
「子どもの権利条約の第8条には、“締結国は、子どもが身元関係事項の一部もしくは全部を不法に奪われた場合には、その身元関係事項をすみやかに回復するため適当な援助ならびに保護を与えなければならない”とあります。江蔵さんの場合、まさにこれが該当します。
もちろん(取り違えられた)相手のプライバシーの問題もありますから、関係者の了解は必要でしょう。ですがそれを得たうえで援助することは、絶対に必要だと思います。少なくとも“相手にもプライバシーがあるからできません”というのは、ありえない対応だと思いますね」
また言うまでもなく、産院には赤ちゃんを正しい親に渡さなければならない契約上の義務がある。海渡弁護士は、「今回はそれが履行されていない。ただし履行不能ではない。戸籍受付帳を使えば今からでも義務を果たすことができるはずです」と強調する。
それでも調査を渋る国や都の頑(かたく)なさに対して、長沖さんがこんな背景を指摘する。
「現在、国会で年内の改正が検討されている『生殖補助医療法』でも、子どもの出自を知る権利は保障されていません。その理由は、日本では基本的に子どもの権利が認められていないからだと思っています。
女性の権利より男性の権利のほうがどこか強いと思われているのと同じように、日本では子どもよりも親の権利が優先される。子どもを親の所有物のようにとらえ、親に決定権があると考えているからではないでしょうか」
今回の裁判で都は、「調査には精密なDNA鑑定や個人情報の強制的な開示が必要だが、それを行う根拠となる法律がない」と主張している。
こうした都の姿勢を受けて海渡弁護士は、国会での法整備の道も探っている。取り違えが起きたとき、誰がどのように調査するかを法的に決めようというものである。
海渡弁護士が言う。
「行政が動かない、動けないのは、動く法的根拠がないからです。でも、立法化できれば根拠ができる。生殖補助医療のケースでは意見が分かれ、立法化はハードルが高いと思います。しかし、医療機関の取り違えの場合について医療機関や行政当局に調査義務を負わせることに反対する意見はないはずです。法律さえできれば、都はそれに従って調査し始めるはずなんです」
裁判と立法化の両面から江蔵さんの思いを支える構えだ。