妻への感謝と珍しい父子鷹
34年の監督人生を振り返り、上田さんは多くの人の支えがあったからこそと感謝する。やはりいちばんは妻・秀子さんだろう。
顧問の秋山さんの長女だった秀子さんと'91年に結婚。家業のホテルを手伝ったり弟妹の面倒を見たりと、「年下なのに本当にしっかりしている」ところに惹かれたという。
秀子さんは「事あるごとに陸上に没頭してしまう父を見ていたので、絶対に陸上の関係者とは結婚しないと思っていたのに」と笑う。
そして長男の誠斗さん、次男の健太さん、長女の歩実さんと3人の子宝に恵まれる。
「主人は合宿や大会で忙しいなかでも、時間がある限り子育てに協力してくれました。家族のことを本当に大切にしてくれます」(秀子さん)
上田さんが思い出に残っているのが、家族でディズニーランドに行ったこと。
「ファストパスを取るためにビッグサンダー・マウンテンへ一目散に走っていって。本当に楽しかったですね」
秀子さんは長年にわたって、選手の姉代わり母代わりとして献身的にサポートしてきた。
「体調の悪い選手を自宅で面倒見たり、骨折した選手を送り迎えしたり、日常茶飯事でしたね。普段の会話からして山梨学院がベースでした」(秀子さん)
実は山梨学院大学の襷も秀子さんの手作りだったという。
「最初は襷にペンでロゴを写したりアイロンプリントを使ったり試行錯誤しましたね。肌にも触れるものだから、山梨の地場産業の柔らかい甲斐絹織を使っていました」(秀子さん)
そして'14年、山梨学院大学を間近に見て育った次男の健太さんが、その山梨学院大学に入学する。息子と距離感を保つのは難しそうだが。
「中学のころから一緒に練習をしていたので、健太には自然体で接していましたね。逆に健太のほうが気を使っていたかもしれないけれども」
箱根駅伝の歴史で初めて「父子鷹」が登場したのは'16年のこと。2年生となった健太さんが3区で箱根デビュー。同じチームで父子が監督と選手という関係で出場するのは史上初の快挙だった。
実はその前年、健太さんは1年生ながら1区にエントリーされていた。山梨学院大学附属高校で全国高校駅伝を制し、即戦力として期待のルーキーだった。しかし当日のメンバー変更。くしくも父親と同じ経験をしたことになる。
「故障明けで万全ではなかったので、健太には数日前に『今回、おまえを使うことはない』と伝えました」
戦略を考えての苦渋の決断。伝える指揮官の目には光るものがあった。
「選手を交代するとき、励ましとか慰めの言葉はあえて言わないようにしています。でも後から健太に『親父のほうが目ウルウルしてたよ』って言われましたね」
息子を思いやる優しい父親の顔をのぞかせた。
1年前の悔しさを健太さんは走りにぶつけた。3区で格上の駒澤大学の選手と競り合いながら、わずか1秒差で3位を死守。区間7位の粘りの走りを見せた。
「前半は緊張していたようだけれども、後半は本来の動きが戻って何とかいい走りをしてくれましたね」
3、4年で健太さんは父親と同じ5区山上りを担う。
「故障を抱えていても耐えて、よく頑張ってくれました。特に最終学年ではキャプテンを務めて、悩みながらもチームをまとめてくれたと思います」
箱根駅伝を上田さん自身は3回、健太さんも3回、そして義父の秋山さんは4回走っている。親子孫で計10回。世代を超えた襷リレーに駅伝ファンは胸が熱くなったに違いない。
'19年に上田さんは、34年間務めた山梨学院大学の駅伝監督を、コーチだった飯島理彰さんに託すことになる。それでも上田さんは“走り”を止めない。現在は関東学生陸上競技連盟の駅伝対策委員長として箱根駅伝の大会運営に尽力する。新型コロナや韓国の群衆雪崩事故を受け、開催には厳しい道のりが待ち受けている。だから上田さんは走り続ける。箱根駅伝という襷を次世代に渡すために──。
〈取材・文/荒井早苗〉