歌いながら死なれたらみんなが困る

 2010年には、音楽活動を休止するほどになる。

その時は腹腔内全体に炎症を起こしちょくちょく高熱が出て死ねるかも、という状態だった。歩いてるだけですごい大出血。病院行ったら、腹腔内炎症、全部が機能不全になってた。おしっこの温度が42度、体内の熱がそれだけ高くなってたんです」

 夫が彼女にこう言った。

これは歌う歌わないのレベルじゃない。生きるか死ぬかの問題だ。昔のアーティストじゃないんだから、歌いながら死んだらかっこいいと思うかもしれないけど、そこに立ち会ったお客さんとスタッフは拷問だよ

 そして活動休止。'15年には子宮を全摘出。その後はアメリカの代理母出産も試みたが、'17年9月頃に送り出した、冷凍保存していた最後の受精卵でも妊娠には至らなかった。

「私は歌手というよりはミュージシャンなんだと思う」。作詞作曲も手がける大黒は、自身の中で作家の自分とシンガーの自分分けて考えているという
「私は歌手というよりはミュージシャンなんだと思う」。作詞作曲も手がける大黒は、自身の中で作家の自分とシンガーの自分分けて考えているという
【写真】「自分の限界が見えた」と語る大黒摩季さん

 不妊治療を終え、大黒は夫婦の形を見つめ直したと言う。

「彼が友達の赤ちゃんを抱っこして“こんな顔するんだ、愛おしいな”と思ったけど、ことあるごとにごめんねと思って生きていくのか、と考えた。2人でいて罪の意識を持ち続けるより、彼の別の幸せを心の底から応援する方が幸せで楽。そう思って'17年の暮れに離婚を決めました」

復帰へ背中を押してくれたのは──

 2010年から6年間。大黒は療養のため休業した。

「2回目のオペの時は、まったく強い声が出なくなった。そのときに覚悟を決めて、もう歌い手は隠居だなって。

 で次のオペの時はもっと酷くて、開腹手術の領域が広く(歌手にとっての)命の腹筋を縦に切ったのでファルセットさえキープ出来なくなった。子宮を全摘したことで空洞が出来るから、ゴルフで言えば、何を打っても「ファー!!」って感じでしたね」

 つまり思ったように声を出せなくなっていたのだ。もう2度と大黒摩季として歌えないかもしれない――。そんな大黒の背中を押したのが、吉川晃司だった。

「もしや腐ってるんでしょ?」

「腐ってはないです。弱っているだけです」

「いいから来なさい。頼みたいことがある」

「いや、もう無理だと思います。全然歌っていないもん」

「お前は錆びない女だから大丈夫だよ。大黒摩季にしか出せない音があるだろ。それをやってみろよ」

「それがやれないから言ってるんです!!」

「いいからまぁやってみろよ」

 スタジオに入り、恐る恐る歌ってみると、休んでいた分だけ声質はよかった。

 そのとき、身体が「鳴った」のだ。