泣きながらカメラを回す
大好きだった母が変わっていく姿に、泣きながらカメラを回すこともあった。
「父が怒鳴るところは生まれてから一度も見たことがなかったので、娘としては止めなきゃいけなかったのかもしれないけど、『うわー、お父さんがキレた』とオロオロしちゃって。あのとき、もしカメラを持ってなかったら、すごいショックで、めっちゃへこんでたと思いますよ。
でも、ディレクターとしては絶対、カメラを回さなきゃって。あー、スゲーものが撮れてるなと、ワクワクする気持ちが半分あったから、それでちょっと救われたところはありますね」
母の代わりに、生活を支えたのは父だ。それまでは一日中、好きな本や新聞を読んでいて家事は専業主婦の妻に任せきりだったが、ひとりで買い物に行き、意外と危なげない手つきで包丁を握る。鼻歌を歌いながら掃除機をかけて、洗濯もする。
「これはシャツ、パンツ、これは乳にするぶん」
そう言いながら良則さんが妻の下着をたたむシーンでは、毎回、観客席から笑い声が起きるそうだ。
ただ、元気だとはいえ、父は当時すでに90代。腰が深く折れ曲がっていて歩く速度はゆっくりだし、耳も遠い。心配した信友さんは帰省するたびに聞いた。
「直子(私)が呉に帰って、一緒に介護しようか?」
だが、父は「帰らんでええ」と頑なだったという。
反対した理由を本人に聞いてみた。現在、良則さんは102歳だが、受け答えはしっかりしている。
「やっぱり自分の女房じゃけん、わしが面倒みようと思いよりました。そりゃあ、大変でしたよ。じゃけど、あんたは向こう(東京)で頑張りや、いう気はありました。まあ、娘の才能に期待しとったんじゃないか思いますね。普通の子とは違うのーとは、ずっと思いよりましたから」
周囲に驚かれるほどの賢い子
父にそこまで言わせるほどの「才能」「違い」とは何か。良則さんに幼少期の信友さんの様子について聞くと、こんな答えが返ってきた。
「わしは遅くに結婚したんでね。もう子どもはできん思うとったですからね、かわいかったです(笑)。会社から帰るとね、近所の散髪屋さんでもろうた雑誌をすぐ持ってきてね、わしのひざの上にコトッと座ってから、読め、読め言うて。わしがいいかげんなこと読みよったらね、怒るんですよね。もう、そらで覚えとったんじゃないかと思います」
耳で聞いて覚えてしまう子どもはよくいるが、信友さんの場合、まだ1、2歳だったというから、かなり早熟だ。
「私が私のことを私だと思うのはどうして?」
2、3歳のころには、こんな質問を口にしていたと、信友さん自身も記憶している。
「この質問にどう答えてもらったかは覚えていないですが、とにかく私は『何で?』『何で?』と、何でも聞きたい子どもだったから、母はそれに答えるために、いっぱい本を読んだと言っていました。私が何を聞いても、『何でそんなこと聞くの?』と否定されたことはない。おかげで自己肯定感がすごく培われたので、両親には感謝しています。その分、わがままにはなったけど(笑)」
小学校、中学校は地元の公立校。高校は片道2時間かけて、広島大学附属高校に通った。そして、現役で東京大学文学部に合格し、上京する。
当時、呉から東京の大学に進学する女子はほとんどおらず、皆に驚かれたそうだ。
「結婚するまで親元にいるのが当たり前という保守的な風土でしたけど、うちの親はそれをものともせず、『あんたの好きなようにしなさい』と。特に父は、戦争と親の反対で行きたい大学に行けなかったから、その無念をあんたが晴らしてくれと口では言わないけどオーラは感じましたね」
東京を選んだのは、芝居やサブカルチャーへの興味があったからだ。作家・脚本家の向田邦子さんに弟子入りして、脚本家になりたいという夢もあった。
「向田さんのことは、もともと母が大好きだったんです。テレビは茶の間に1台しかないから、『阿修羅のごとく』みたいな妻と愛人とのドロドロ話を、父と母と一緒に見ていたんです(笑)」
だが、信友さんが大学を卒業する前に、向田さんは飛行機事故で急逝してしまう。ショックを受けて急きょ方向転換。当時、ブームだったコピーライターを目指すことにしたが、男女雇用機会均等法の施行前で、広告代理店はどこも女子の採用がない。あちこち探し、コピーライターを募集していた森永製菓に採用された。