○も立派な漢字、と言われたら驚く人も多いだろう。しかし、実は“口”という字や国がまえの四角は○から変化したもの。
小さい頃から書家になることは決まっていた
漢字の生まれた背景、奥深さに触れたエッセイ『文字に聞く』の著者である、書家の南鶴溪先生。日本近代書道の父とも評される、日下部鳴鶴の伝統を継ぐ鳴鶴流第四代として、今日まで漢字の魅力を普及してきた人物だ。
1941年に兵庫県に生まれた南先生。書家としての歩みは6歳まで遡る。
「我が家は代々書家の家でして、小さい頃から書家になることは決まっていましたね。習い事の稽古始めの慣習に倣って、6歳6月6日の朝6時から勉強が始まりました」
伝統の担い手としての英才教育。そんなことを想像してしまうが、実際は順風満帆とはいかなかったようで……。
「始めたてのときは、祖母から教わっていました。まずは日記を書くようなところからで、段々と上達してきましたら、次は外の先生に習うことになります。書家にとって、どのような師匠につくのかは、人生を左右する重大な決断。ですが、私の場合は何人も先生を変えてしまいました」
なぜ先生を変えることになったのか。
「7歳ごろからご近所の先生のもとに通ったのですが、どうも私はひねくれていたんでしょうね。先生が“僕がもし死んだら新聞に載るんだよ”っておっしゃったのを聞いて、先生のことが嫌になってしまったんです。
ほかにも、“審査員に高い万年筆を差し入れたけどダメだった”というような話を耳にする機会が多く、どこか尊敬できないという気持ちになってしまいました」
別の先生なら……。そう思って新たな先生のもとに通い始めたが、同じような壁にぶつかってしまい、その度に先生を変えていった。
「そうしているうちに、段々と書道というのは先生がいなくてもいいのかな、と考え始めたんです。そう思っていたころにご紹介頂いたのが、岡村天溪先生です。東京にすごい先生がいらっしゃるんだと聞いて、話を聞いているうちに一度どうしてもお会いしたいなと思い、22歳で上京したんです」
岡村天溪は、鳴鶴流第三代として、日下部鳴鶴の伝統を戦後も受け継いだ人物。
「岡村先生は弟子を取らない、と聞いていましたが、初めてお会いしたときに、私の氏名を見て“本当に本名か”を尋ねられました。私の本名は南陽子というのですが、岡村先生にとっては師匠と、さらにそのまた師匠の2人の別號の字を持っていたんです。岡村先生は大変驚かれた様子でしたよ」