タレント、MCとマルチな活躍を続けながら、沖縄移住の夢を叶え、9歳下の恋人の存在も明かしている“律ちゃん”こと田中律子。
芸能生活40周年を迎えた田中律子
今年で芸能生活は40周年。生活の拠点を沖縄に移しながらも、『路線バスで寄り道の旅』(テレビ朝日系)、『ワルイコあつまれ』(NHK Eテレ)など人気番組に出演し、東京での仕事も忙しい。
さらに日本サップヨガ協会の理事長、サンゴの保全活動をするNPO法人「アクアプラネット」の理事長も務め、芸能以外の仕事にも熱心に取り組んでいる。
子育てを終え、仕事も恋も生活も謳歌している理想的なアラフィフの代表だ。田中が自然体でいながら、厳しい芸能界の第一線で活躍を続けてこられたのはなぜか。共演者やスタッフから「また一緒に仕事をしたい」とラブコールを受けるのは、田中のアイドル時代の体験が関係していた。
歌手では鳴かず飛ばずも、ドラマで大ブレイク
デビューしたのは12歳のとき。東京・町田のデパートで、当時モデル事務所だったマネージャーにスカウトされたのがデビューのきっかけだ。
「小学生のころは引っ込み思案で、ひとりでは外出できないほどでした。自分が芸能界に入れるなんて思ったことはなく、スカウトされたときはびっくりしました。当時は芸能界なんてよくわからない世界ですし、両親はもちろん反対。でも、親戚の叔母が昔、ヘアメイクの仕事をしていて、『女の子だし、そういう仕事もいいかも。社会経験にもなる』と両親に助言してくれ、CMや雑誌のモデルの仕事を始めたんです」と、田中は当時を振り返る。
オーディションにも次々受かり、14歳のときには『鶴ちゃんのいちごチャンネル』(テレビ朝日系)で司会の片岡鶴太郎のアシスタントに。持ち前の責任感で与えられた仕事をきちんとこなす姿勢が評価され、仕事のオファーが途絶えなかった。こうして順風満帆にキャリアを築いていったと思いきや、実は10代で大きな挫折があったという。
「作曲家の筒美京平先生のプロデュース、杏里さんの妹分という触れ込みで歌手デビューをしたんです。でも……、筒美先生プロデュースでオリコン100位に入らなかったのは私くらいだと思います(笑)」
“フォーライフレコード初のアイドル”として歌手に挑戦することになったが、実は歌が得意ではなく、歌手にはなりたくなかった。また、当時は“アイドル冬の時代”といわれ、歌番組が減っていった時期でもあった。
「事務所から期待されていたので、5年くらいは頑張りました。3か月に一度はCDを出し、振り付けを覚え、レコード店をプロモーションで回ったり、デパートの屋上で歌ったり。でも鳴かず飛ばず。耐えきれなくなって、事務所に『もう無理です』と何度も言ったんです。17歳のときにはレコーディング中に倒れてしまいました。病院へ行ったらストレスで胃潰瘍ができていることがわかりました」
それほど歌手としての活動を重荷に感じていた田中。11枚のシングル、5枚のアルバムをリリースしたが、ヒット曲に恵まれることはなかった。