勝手にリモートワークを宣言!
夫の死後、4年もの間、創作と育児にだけ取り組んだ30代後半の紫式部が、藤原道長の愛娘で、一条天皇の中宮(=皇后)の彰子のもとで女房として仕える話を引き受けたのは、経済的な不安が大きかったからかもしれない。紫式部が宮中に初出仕したのは寛弘2年(1005年)の年末だった。
しかし数日ほどで職場を抜け出し、勝手にフルリモート勤務にしてしまった。彰子からの出勤要請も無視し、職場復帰したのは秋だった。紫式部は宮中でも人気の『源氏物語』の著者で、物語の続きの執筆が、彰子の女房としての彼女の主な仕事だったからこそ、クビにならずに済んだようだが、問題の多い新人社員である。
紫式部が仕える彰子は当時18歳だったにもかかわらず、一条天皇との間にすでに敦成親王を授かっており、中宮の地位も安泰であるかのように見えた。しかし、道長のライバルの貴族たちが自慢の娘たちを後宮に入内させ、彰子から天皇の寵愛を奪い取ろうと画策していたので、道長は一計を案じ、彰子の部屋に行けば『源氏物語』の続きが読めますよ……と、文学好きの天皇を誘ったという。
道長は、紫式部のもとに紙や筆、墨などの道具の差し入れをしているが、半紙一枚が、現代の価値で1000円以上したころの話だ。『源氏物語』は最終的に400字詰めの原稿用紙だと2000枚以上の大作になったが、その何倍もの紙が下書きに使われたに違いない……。
“道長の愛人説”は本人の吹聴!?
鎌倉時代に成立した『尊卑分脈』という系図集にも、紫式部が「道長妾」として記されている。しかし、信頼できる史料を見る限り、紫式部と藤原道長が恋愛関係にあったと断定できる証拠はない。
唯一、なまめかしい印象の逸話が、ある夜更けに道長が紫式部の部屋を訪れて扉を叩いたが、彼女は彼を迎え入れなかったというものだ。『紫式部日記』で一番有名なシーンである。長身でたくましく、明るい性格の道長のそばには多くの女性たちがいた。源倫子、源明子という2人の「正室」、一説に2人の「側室」、そして「召人」と呼ばれる、つまみ食い中の女たち……そうした道長の女性関係の中に、紫式部が踏み込む勇気があったかどうかだろう。
ただ、道長の訪問を断ったという話をわざわざ、公開を前提とした日記に書き残した紫式部は、憧れの道長から女性として意識されたことを内心、うれしく思っていたのではないか。しかし紫式部にとって道長は恋愛対象ではなく、遠くから見守りたい「推し」だったように思える。