目次
Page 1
ー ブラジル代表・ネイマールのプレーを見て ー サッカー王国の「天才」との出会い
Page 2
ー 夕焼けが見えない都会生活への戸惑い
Page 3
ー 「人生で一番見たかった景色」
Page 4
ー メキシコのタコス屋で汗水流した日々
Page 5
ー 人生の迷走から一転、ブラジルで「飛び込み営業」
Page 6
ー 「子育てこそが夢だった」 ー メジャーリーガーにも広がった活動の場

 巧みなフェイントでディフェンダーをかわし、ドリブルでゴールまで颯爽と駆け上がっていくその姿は、ピッチでひときわ輝いていた。ボールを身体の一部のごとく自在に操り、まるで遊んでいるかのようだ。サッカー王国、ブラジル代表のエース10番を背負うネイマール選手─。

 その華麗なプレーをYouTubeで初めて目にしたのは今から10年以上前、作家のタカサカモトさん(38)が東京大学在籍8年目の初夏だった。

ブラジル代表・ネイマールのプレーを見て

ブラジル代表フォワードのネイマール選手と。彼との出会いが、後のフットリンガル創業にもつながった
ブラジル代表フォワードのネイマール選手と。彼との出会いが、後のフットリンガル創業にもつながった

「あの映像を見た時の衝撃が強すぎて、ブラジルへ行くことを決意し、1年以内に実行に移しました。ポルトガル語は挨拶程度しかできなかったのですが、その後もブラジルに足を運んで独学で勉強して、最終的にはネイマールの来日時通訳を務める機会にも恵まれました。彼には本当に人生を変えられました」

 そう振り返るタカさんが現在、作家業と並行して生業にしているのが、「フットリンガル」と呼ばれる独自の事業だ。サッカーと国際教養(リベラルアーツ)という2つの軸を通してアスリートの人生を豊かにするコンサルティングサービスという。

 オンラインの語学レッスンを軸としながら、指導相手が滞在する国の文化や社会、あるいは国民性を踏まえた異文化コミュニケーションも同時に教えている。生徒に名を連ねるのは、サッカー日本代表の主将で英プレミアリーグの強豪リヴァプールに所属する遠藤航選手(30)、2018年のロシアW杯で躍動したドイツ1部シュツットガルトの原口元気選手(32)など、世界を舞台に活躍するアスリートたちだ。

「組織の時代から個人の時代への移行が加速する現代の日本において、世界を相手に戦うスポーツ選手は個の力でたくましく生きていく象徴的な存在です。そんな彼らが知的な側面でも社会的なロールモデルになってくれたらうれしいなと思っています」

 そんな理想を掲げてフットリンガルという事業を確立させたタカさん。トップアスリートに関わる人生を歩むきっかけになったのが、ネイマールの映像だったのだ。

サッカー王国の「天才」との出会い

 タカさんがブラジルの地を踏んだのは2012年2月。それから2か月後の再訪時、同国サッカー界の名門、サントスFCの食堂で、クラブスタッフに紹介される形で初めてネイマールと挨拶を交わしたという。当時のネイマールは弱冠20歳だが、すでにブラジル代表のメンバー入りを果たしており、南米年間最優秀選手賞も2度獲得するほどの逸材だった。

「ポルトガル語で『よろしく!』と言って手を伸ばし、握手をしました。ブラジル人にしては手の握り方がそれほど強くなく、柔らかい感じ。不思議な目の色をしているのも印象的でした」

 ネイマールとの出会いを皮切りに、やがて日本のサッカー選手たちとも関わりを持つようになる。

 '17年、ネイマール一行のアテンド通訳として東京に滞在していた時のことだ。内輪で開催されたパーティー会場で出会った元日本代表、李忠成選手(38)と意気投合し、ほどなくして遠藤選手を紹介された。

「それをきっかけに遠藤選手はフットリンガルの最初の生徒になりました。他の多くの選手に比べ、遠藤選手は中学生の時、塾に行って英語をまじめに勉強していた下地があったので、文法の知識はありましたね。当時は週に何日間かリモートで教え、長い時は4時間ぶっ続け。そのうち3時間ぐらいは雑談でしたけど。子育てから国際情勢まで、とにかくいろんなことを話していました」

 遠藤選手はリヴァプールへ移籍した昨年夏以降、流暢な英語でメディアのインタビューに答えている。この背景には、タカさんの指導があったのだ。

「例えばユーモアについて、海外の選手はどう捉えるかを解説することもあります。ほかにも原口選手の場合は、ブラジル人のメンタリティーに興味があったので、ブラジル人の知り合いが多い僕の経験から伝えられることを話しました」

 そんな原口選手からは「ブラジルをどうやったら倒せるの?」と尋ねられたこともあるほど、タカさんの見識は信頼されている。

 日本人選手の海外移籍が特に盛んになったのは、2010年に南アフリカで開催されたワールドカップ以降だ。ところが言葉の壁や異文化への適応につまずき、思うような結果が出せずに日本へ帰国する選手も一定数存在した。それを伝えるニュースに、タカさんは着目していた。

「海外移籍できるだけの実力や才能があるのに、言語や適応の問題で挫折するのはもったいない」

 この時に感じた素直な気持ちが後に、「フットリンガル」という事業を生み出したのだった。