玉さんは、50歳を過ぎてフリーの道を選んだ。当時の心境を問うと、「不安だらけだった」と正直に振り返る。

師匠が独立して、いなくなっちゃった。自分は、師匠がいない事務所に残り続けるよりも、師匠の教えを受け継ぎつつ自分の『看板』を掲げて、自分の足で歩いてみたかった。ラーメン店でもさ、○○軒がたくさんのれん分けして、いろんな場所に出店している。弟子が本店にとどまり続けるよりも、自分なりに受け継いだことを広げていくほうがいいと思った」

 だが、相方である水道橋博士は、その考え方には賛同しなかった。

「博士には博士の考え方がある」と尊重しつつも、結果的に浅草キッドは無期限活動休止になってしまった。

「オフィス北野の看板もなくなって、長年やってきた仕事もなくなるのかな、なんて不安を感じていたんだけど、テレビやラジオのスタッフさんたちに『私たちは事務所と付き合ってきたわけじゃなく、玉さんと仕事をしてきました』って言われたときは、本当にうれしかった。独立して、心境的には屋台からのスタート。不安で倒れそうだったけど、支えてくれる人たちがいるから、今がある」

『お義母さんは帰ってこない!』

 玉さんがレギュラーの『町中華で飲ろうぜ』(BS―TBS)は、今ではBS屈指の人気番組へと成長した。

「町中華は決して派手さはないけれど、いつも同じ味を提供することのカッコよさがある。自分の腕一本で生きている─そういう姿勢は独立した自分にとって、大きな刺激を受けている」

 反面、独立してほどなく、長年連れ添った妻が出ていった。結婚したとき、彼女には前夫との子どもがいた。血こそつながっていないが、愛情を持って息子に接してきたことは、前著『粋な男たち』などでも綴っている。

せがれは立派に育ったと思いたい。でも、カミさんには30年間、迷惑をかけっぱなしだった。堪忍袋の緒が切れたんだと思う。ある日突然、何の前触れもなくいなくなった。最初は、自分をごまかすために宇宙人に連れ去られたと思い込むようにしていたけど、ダメだった(苦笑)。寂しいやら情けないやらで、家に帰るたびに独房にいる気分ですよ」

 自虐ぎみに笑う。

「カミさんは今でも経理をやってくれているし、孫の行事で顔を合わせることもある。離婚はしていないから、なんとかよりを戻そうといろいろ画策しているけど、せがれの嫁さんに『お義母さんは帰ってこない!』と突き放されて……ショックだった(苦笑)。やっと気づきました。自分ファーストじゃダメなんだって」

 そう考えられるようになった背景には、初孫が生まれたことも大きかったという。