92歳にして本格的な歌手デビュー
6月某日。
崑さんは、東京都内のレコーディングスタジオにいた。『人生百年時代がやってきた』と、歌手で俳優の高島レイラさんとのデュエット曲『ありがとうの花』の2曲をリリースし、なんと92歳にして歌手デビューを果たすというのだ。高島さんとは、孫どころかひ孫くらいの年の差だという。マイクの前に立つと、「標準語の歌なんてうまく歌えるんかなぁ」とぼやき、周囲を笑わす。どこにいても、崑さんの周りには“笑い”がある。
「今まで歌を歌うことはあっても、正式にデビューしたことはないんです。なんでも、92歳でのデビューは日本最高齢のデビューらしい。長く生きていると、いろいろなことが起こりますわ」
師匠と仰ぐ、関西を中心に活躍した人気司会者・大久保怜氏に師事したのが1953年。崑さんの芸歴は70年を超える。現在、芸能界でこれほどの芸歴を誇る人物は、もう数えるほどしかいない。
「戦前、神戸の新開地で生まれ育った僕は、よく親父に連れられて芝居小屋や劇場に行っていました。親父は僕を楽屋に置いて、女の子たちと飲みに行ってしまうから、出番待ちのお姉さんたちに可愛がられて、おしろいを塗られてカツラをかぶらされたりしてね。舞台で、『かかさまの名はおつると申します~』なんてやるもんだから、おひねりやお菓子が飛んできた。幼稚園よりこっちのほうが全然ええなと思ったなぁ」
華やかな世界に憧れを抱いていた。とりわけ、虚弱体質で学校も休みがちだった崑さんにとって、芸能界は夢の世界だった。
「片肺を取った後、先生からは『丹波の田舎に行って、養生しろ』と言われました。おいしいものを食べて余生を過ごせと。僕は、ほんまに自分が40歳までに死ぬと思っていたんです」
本当に40歳までしか生きられないのであれば、やりたいことをやりたい─。1950年、20歳のとき、崑さんは神戸のキャバレー『新世紀』のボーイとなり、きらびやかな世界に飛び込んだ。
「お金持ちから怖い人まで、いろいろな人が来ました。『ボーイ、預かっとってくれ』なんて言われてピストルを渡されたこともありました(笑)。でも、僕らボーイはチップが食い扶持。どんな相手でも機転を利かせたり、ユーモアがないとチップがもらえないんです」
このときの経験が、後に喜劇役者として開花するための素地になったと振り返る。
「喜劇役者って相手を笑わすだけやなしに、記憶の中に入っていかなあかんのです。忘れさせたら何にもならない。『あいつは面白いな』って覚えさせないといけないんです」
売れっ子になり、主治医から激怒の電話が
大久保怜氏に弟子入りすると、大久保の「大」と自身の本名である岡村の「村」を合わせて「大村」に。「おまえはようしゃべるから、めでたそうな名前がいい」という理由で、昆布の「昆」を拝借し、大村昆と命名された。後日、誤植で「崑」の字になっていたが、「中国の崑崙山の崑やで。ええやないか」という師匠のひと言で、そのまま崑に改名した。
ひょうきんなキャラクターと覚えやすい名前。大阪・梅田にある「北野劇場」専属コメディアンとして舞台に立つようになると、頭角を現すのは時間の問題だった。
「僕はボケ役だったこともあって目立った。ボケ役はえらいウケるんです」と語るように、「おもろいやつがいる」という評判は広まり、テレビ草創期の人気脚本家だった花登筺氏の目に留まる。
「喜劇役者って手品みたいなところがあるんです。コケる芝居があったら、バレないようにわざとテーブルを叩いて大きな音を出す。すると、ほんまにコケたように見えるし、自分にお客さんの目を引きつけることもできる。喜劇やからこそ、お客さんに伝わるように工夫することが大事なんです」
『やりくりアパート』『番頭はんと丁稚どん』に出演すると知名度は上昇。ついに、主役の座を射止める。作品の名は、『頓馬天狗』。大塚製薬が一社提供を務める時代劇コメディーで、当時の主力商品『オロナイン軟膏』をもじった主人公・尾呂内南公を熱演した。「片手抜刀」などトリッキーかつコミカルな殺陣が話題を呼び、崑さんの人気は全国区へと羽ばたいた。
「このときはレギュラーが11本。生放送も多かったから、とんでもないスケジュールです。肺が一つしかないのに、よう頑張ったなと自分でも思います」