肺を切除した恩人からの電話
生放送終了後、自宅に一本の電話がかかってきたという。
「おまえ、何しとるんや! テレビ局みたいな埃の多いところいたらあかんやろ。丹波に行け言うたやろ」
聞き覚えのある声色。10年前、肺を切除した恩人の主治医だった。
「『頓馬天狗って誰や思ったら、おまえやないか!』って、すごい剣幕で怒るんです。どうしよかな思って、『はい先生、すんません。やめますからご安心ください』ってウソついて切り抜けました(笑)」
『頓馬天狗』では、尊敬する喜劇役者の一人、三木のり平氏とも共演した。崑さんの代名詞である鼻眼鏡(ずらしたロイド眼鏡)は、三木氏からインスパイアされたものだった。
「似ているということもあって、三木先生には可愛がってもらいました。先生の晩年、大阪・今里のお茶屋でごちそうになったことがあったんですけど、先生のことを『崑ちゃん』と言い間違えた人がいて。酔いが回っていた先生は、『俺は大村崑じゃない!』と立ち上がるや、そのままお茶屋の2階から屋根に乗り出し、『大村崑じゃねぇ!』と叫びながら屋根を移動し始めて。慌てて全員で止めて事なきを得ましたけど、あの“今里事件”は忘れられへん」
後日、三木氏から、「崑ちゃんに鼻眼鏡を譲るよ。堂々とやってくれ。もう俺はしないからやり続けてくれ」と言われたという。それからしばらくして、三木氏は亡くなった。その遺言を守るように、今でも崑さんは写真に応じるとき、眼鏡をずらしてニコリと微笑む。
身体が弱かったから「病院好き」「薬好き」
大村崑のホーロー看板、そして松山容子のホーロー看板(ボンカレー)を見ると、昭和に思いを馳せてしまう─そんな人は少なくないだろう。
この昭和遺産ともいえるホーロー看板は、前述したように妻・瑤子さんのひと言がなければ実現していなかった。
「40歳まで生きられるかどうかわからないから、家庭を持つことは諦めていたんです。でも、一目ぼれしてしまったんだから話は別です(笑)」
1960(昭和35)年に行われた結婚式は、芦屋雁之助さんと、その弟・芦屋小雁さんとの3組合同で行われ、全国に生放送されるほどだった。いかに、崑さんが国民的な存在だったのかがうかがえる。
結婚生活は、実に64年に及ぶ。今もそろってライザップに通うおしどり夫婦。その秘訣を、瑤子さんに尋ねてみた。
「これだけ長いこと一緒だと、我慢しないといけないところはありますよね」
そう話すと、「一部切り取りたいところだってあります」といたずらっぽく笑う。
「彼は案外、短気なんです。ですから、私が主張するにしても、一線を越えないようにブレーキもかける。そのバランスが大事だと思います」(瑤子さん)