時間がかかりすぎた病院への搬送

 この事故でドディ・アルファイド氏とアンリ・ポール氏は即死であった。しかし、ダイアナ妃は、事故直後は生きていた。ダイアナ妃はまず事故現場で医師による40分に及ぶ緊急治療を受けたのち、救急車で事故現場から約9キロ離れたピティエ・サルペティエール病院に搬送された。なぜすぐに病院に搬送されなかったのか?これには、患者を病院に搬送するよりも、現場で出来うる限りの治療を施すことを重要視するフランスの緊急医療対応事情がある。

 その後、ダイアナ妃を乗せた救急車は、時速40キロから50キロの速度でピティエ・サルペティエール病院に向かった。一刻を争う事態にもかかわらず救急車が通常速度で走行したのはダイアナ妃の容態を考慮した医師の指示であったという。また途中ダイアナ妃の血圧が急激に低下したため、救急車はピティエ・サルペティエール病院まで約270メートルの地点で停車を余儀なくされ、車内で救急措置が取られた。結果、深夜で渋滞がないパリの街中であったにもかかわらず、救急車が病院に到着するまでに1時間半を要した。ちなみに道路が混雑する日中でもアルマ橋トンネルからピティエ・サルペティエール病院までは45分前後で到着する。

 ピティエ・サルペティエール病院到着後、医師や医療関係者によってダイアナ妃を救うために「あらゆる手段が講じられた」が、8月31日午前2時10分頃にダイアナ妃は心停止に陥り、午前4時に死亡が宣告された。

ダイアナ妃自身が恐れていた命の危険

「交通事故で私の頭部に重傷を負わせる計画が存在する」

 ダイアナ妃の死をめぐる陰謀説がいまだイギリス国内に根強く残る大きな理由の一つが、ダイアナ妃本人が自らの身と命の危険を感じ、強い恐怖を抱いていたという事実だ。ダイアナ妃はチャールズ皇太子との別居発表(1992年12月9日)から離婚成立(1996年8月28日)、そしてその後、死に至るまで、常に身の危険を感じていた。その恐怖をダイアナ妃は、生前彼女の秘書であったポール・バレル氏に直筆のメモにしたため、託している。

「今日は(1996年)10月。私はこの机に座りながら、誰かに抱きしめられ、胸を張り、誇りを持って生きるよう、強くあり続けられるよう、励まされたいと切望しています」
「今の私の人生のこの時期が最も危険ですー。『X』が私の車でブレーキの故障による『事故』を起こし、私の頭部に重大な損傷を負わせ、チャールズが再婚しやすくなるよう画策しています」
「これまでの15年間、私はある組織によって打ちのめされ、傷つけられてきました。しかし、それを恨んではいません。私の心の中はとても強いのです。そしてそれこそが敵にとって問題なのかもしれません」
「チャールズ、私をこんな地獄に追いやり、あなたが私にした残酷なことから私は学ぶ機会を与ました。そのことに感謝します」