最初で最後の暴力

一つひとつのエピソードを言葉を大切に選んで話してくれる枡野さん(撮影/伊藤和幸)
一つひとつのエピソードを言葉を大切に選んで話してくれる枡野さん(撮影/伊藤和幸)
【写真】警察官に職務質問されている様子の枡野浩一さん

 人生で初めて暴力を振るったのもこのころだった。

「トリオのメンバーの一人にキレちゃって。このころって、月に25本とかライブがあって書く仕事もできないし、収入もないしで行き詰まっていたんです。そんな中で彼の卑怯な部分が見えてしまって僕は野外で号泣しながら持っていた布バッグを振り回して怒ったんです。

 これが最初で最後の僕の暴力ですね。元妻は僕にDVされたと言っていたようですが、僕の怒りの現場を見たメンバーは“ケンカに慣れていない人なんだな”と思ったようです(笑)」

 トリオを解散し、45歳で事務所を辞めた。

「応援する気持ちにシフトしたんです。僕が辞めた後はハリウッドザコシショウさんもアキラ100%さんも錦鯉さんも賞レースで優勝し、『ソニー』がどんどん注目されるようになりました」

 芸人活動は悔いが残った。再び芸人の夢を見るため、54歳のときに『タイタンの学校』に入った。このとき、芸人の藤元達弥さん(43)に出会う。弁護士でもあり、歌をギターで弾き語りし、R―1グランプリで一回選を通過していた。その並外れた才能に枡野さんは惹かれ、お互いピン芸人を主軸にしながら『歌人裁判』という即席コンビを組むこともある。藤元さんは枡野さんの印象をこう語る。

「入学式のときに、後ろの席に枡野さんがいました。短歌で有名で共通の知人もいたので知っていて、『なんで入ってきた?』と不思議でしたし、びっくりしました。枡野さんは誰よりもまじめに授業を受けていて、宿題とか提出物も欠かさないんです。僕は弁護士業もあったので宿題とか出せないときもあったんですが」

 と、藤元さんは当時を振り返る。ただ枡野さんのことは警戒していたという。

「授業中にすごく視線を感じて、見ると枡野さんが自分を見ていたり(笑)。養成所が始まってすぐのころ、枡野さんが授業中に急にみんなの前で『藤元さんと一緒にやりたいです』とラブコールをしてくれて。でも僕は枡野さんのことを知らなかったので、それから著作などを読んだり、ライブの打ち上げで話したりして面白い人だなと思いましたが、執念深い人なんだろうなとも思ったので(笑)。だから信頼して一緒にやろうとなるまでは時間がかかりました」(藤元さん)

自身が作詞した『とりかえしのつかない二人』を定期的にカラオケで歌う
自身が作詞した『とりかえしのつかない二人』を定期的にカラオケで歌う

 藤元さんにも枡野さんにも思い出に残っている場面があるという。

「お笑い養成所の卒業生代表のスピーチを枡野さんがしたんです。そのスピーチが本当に面白かった。というのも、生徒一人ひとりを見て、その生徒の特徴をいじる形だったんです。あれは枡野さんじゃないとできないと思いましたね。養成所の生徒は20代が中心なのでお金もないし、飲むのも公園だったりするんです。

 僕はあまり参加できなかったんですが、枡野さんは付き合っていた。それで若者に差し入れしたりして、自分は酒も飲まないのに公園で付き合って見守っているんですよ。そうやって彼らに向き合っている枡野さんだからこそできたスピーチだなって」(藤元さん)

 10年前とは活動のあり方を変えたのだろうか。

「短歌を映像とかテレビとか舞台の上に置きたいというのがもともとの目的です。ちっちゃいライブでも笑いを取れたときには楽しい。自分じゃなくても、関わった同期が活躍していくだけでも面白い」

 大学中退、離婚、希死念慮。人生で負の面を見た枡野さんだが、今は笑顔で前を向いている。

<取材・文/渋井哲也>

しぶい・てつや ライター、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。新聞記者を経てフリーライターに。若者の自殺や生きづらさに関する取材を得意とする。主な著書に『ルポ自殺』(河出書房新社)、『学校が子どもを殺すとき』(論創社)、『ルポ 平成ネット犯罪』(ちくま新書)など多数。