Peter is Peter
鹿児島で見た海こそ、慎之介にとってはかけがえのない心の原風景なのかもしれない。上京して、わずか1年足らずでデビューを果たす。芸能界で、唯一無二の存在といわれてきた池畑慎之介の生き方こそ、
「Peter is Peter」
人には十人十色、百人百色、千人千色。それぞれの生き方がある。慎之介自身も誰にもまねできない人生を歩んできた。だからこそ、わが人生に悔いなし。
太陽の日差しを浴びながら波の音に耳を傾け、目を閉じる。すると遥か彼方の記憶が色鮮やかに池畑慎之介の心の中に蘇った。
慎之介が生まれたのは、大阪ミナミの繁華街、宗右衛門町。日本舞踊の上方舞吉村流で後に家元、人間国宝になる吉村雄輝を父に、宗右衛門町の料亭『浜作』の娘・清子を母に持つ。
当時の宗右衛門町は、色街。芸妓や道頓堀川の向こうに立ち並ぶ、劇場に通う歌舞伎役者たちでにぎわっていた。3歳のとき。慎之介も白粉を塗り着物を着て、髪の毛を肩のあたりで切りそろえた切禿の姿で初舞台を踏んだ。
「煙管を持って、コンコンやって後ろに反り返ろうとしたらひっくり返っちゃってね。そうしたら拍手喝采。大ウケしたことを今でも覚えています」
だが稽古は決して楽しいものではなかった。稽古場の父は鬼のように厳しかった。扇子や竹の棒でパーンと手を叩かれることなど当たり前。しかも怖かったのは、稽古場だけではなかった。
「私生活でも怒鳴ってばかり。そんな父の仕打ちに耐え切れず、ぜんそく持ちの母は病気がちでずっと伏せっていました。
2人に離婚話が持ち上がったときは、身体の弱い母を守りたいという一心で母についていきました。ところが鹿児島に移ったら、ストレスから解放されたのか見違えるほど元気になったのよ」
そんな母をもっと喜ばせたい。そんな思いから、慎之介は勉強にも熱心に取り組む。
そのかいあって見事、地元の名門校、ラ・サール中学に合格することができた。
ところが思わぬ挫折が待っていた。小学校で1番だった成績が、100番に急降下。授業のスピードにもついていけない。そして何よりも我慢ならないことがあった。
「東大に合格するまでのカリキュラムがきっちり組まれていて、そのレールの上に乗ってひたすら勉強させられる。これが息苦しくてたまらなかった」
決められたレールの上を言われるがままに走らされるなんて、理不尽にもほどがある。
慎之介は地元の公立中学への転校を決意する。東大一直線の学校生活から解放された慎之介。改めて周りを見回してみると、世の中には刺激が満ちあふれていることに気がついた。時代は'60年代末期。さまざまなポップカルチャーが咲き乱れ、慎之介の心を虜にする。
「『平凡パンチ』を読み、ラジオを聴いてみると、東京には、鹿児島にいては味わえない楽しいことがたくさんある。もう我慢できない。いても立ってもいられずに家を飛び出しました」
中学3年の秋。よく考えたら、高校卒業を待ってから上京してもよかったのかもしれない。しかし、
─思い立ったら吉日。
それが、慎之介の流儀。飛行機で大阪まで行くと、新幹線に飛び乗り一路、憧れの東京を目指した。