■赤紙に奪われた幸福な新婚生活

 1920(大正9)年、福岡県福岡市で生まれた。

「小さいころから、知りたがりの、したがり屋。とにかく好奇心が旺盛で、女学校時代もピアノに弓道、水泳と、何にでも挑戦していました」

【写真】県立筑紫高等女学校1年生(12歳)のときに両親、弟たちと。ツチヱさんは友達も多く、学校でもリーダー的な存在だった
【写真】県立筑紫高等女学校1年生(12歳)のときに両親、弟たちと。ツチヱさんは友達も多く、学校でもリーダー的な存在だった
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 小学校の教師だった父親はそんな娘の性格を見抜いてか、「これからの時代、女性も職業を持つべき」と、師範学校への進学をすすめた。しかし、ツチヱさんは、良妻賢母になる道を希望した。

「両親はとても仲がよくて、父のバイオリンに合わせて、母がマンドリンを演奏するような家庭でした。だから、憧れていたのね。夫を支え、家庭を守る母の姿に」

 父親の意向で、教員免許は取得したものの、女学校を卒業後は、福岡市内にある名門の花嫁学校、『幸祝女塾(こうしゅくじょじゅく)』に入塾。2年かけて、和裁、洋裁、生け花、和歌に古典まで、知識と礼儀作法を厳しく仕込まれた。

 当時の福岡では知らぬ人がいない、『幸祝女塾』出身に、この美貌である。塾を卒業して2年後には、小学校時代の恩師のつてで持ち込まれた縁談が、とんとん拍子にまとまった。

 その相手が、当時、税務署に勤務していた仁九郎さんだった。

 結婚式の当日、花嫁控室にいたツチヱさんは、紋付き袴姿の男性が廊下を通るたび、「あの人かしら? とドキドキして見ていた」と笑う。それもそのはず、仁九郎さんとは、この日が初対面だった。

【写真】ツチヱさんと仁九郎さん。三三九度で初めて仁九郎さんと顔を合わせたとき、「自分はこの人の妻になるために生まれてきたんだ」と直感したのだそう
【写真】ツチヱさんと仁九郎さん。三三九度で初めて仁九郎さんと顔を合わせたとき、「自分はこの人の妻になるために生まれてきたんだ」と直感したのだそう

 ところがツチヱさん、言葉を交わしたとたん、瞬く間に恋に落ちてしまったのだ。

「まず恋人から始めよう」

 それが、仁九郎さんの最初の言葉だった。

 こうして、1941(昭和16)年10月、2人は夫婦になった。ツチヱさん20歳、仁九郎さん24歳のときだ。

 新居は夫の職場に近い、福岡市内の練塀町(ねりべいちょう・現在の桜坂)にある長屋。

「長屋といってもけっこう広くて、1階には12畳の茶の間と炊事場。お2階にも2部屋あったの。だから、お家賃が当時で20円もしたんです」

 平日は、「いってらっしゃい」と夫を送り出すと、家事を片づけて市場に買い出し。夕飯をこしらえ、首を長くして夫の帰りを待った。休日には、映画を見に行ったり、部屋でレコードをかけてダンスを踊ったり。

「よく2階の出窓に夫と腰かけ、手をつないで歌を歌いました。淡谷のり子の『別れのブルース』や、東海林太郎の『国境の町』。きれいな夕焼けを眺めながら」

 結婚の2か月後には、戦争が始まっていた。

 戦火は身近に及んでいなかったものの、「いつどうなるかわからない。今日の幸せを大切にしよう」と、夫婦で話したという。

 結婚の翌年、1942(昭和17)年8月には、長男・勝彦さんが誕生した。

「子煩悩な人で、それはかわいがってくれました。仕事から帰ると、“勝彦、勝彦”と抱っこして、よくお風呂にも入れてくれてね」

 親子水入らずの生活は、平凡でも、このうえない幸せを与えてくれた。

 しかし、その日は突然訪れた。同年12月、仁九郎さんに召集令状が届いたのだ。

「覚悟はしていたものの、まさかこんなに早く赤紙が来るとは……。涙が止まりませんでした」

 結婚から、わずか1年2か月後のことだった。

※以下、中編に続く(本記事は『週刊女性PRIME』用に3編に分けて再構成しています)
〈中編〉94歳の恋文が話題――ようやく届いた夫の手紙には“武器をくれ”と
〈後編〉94歳の恋文が話題――結婚50年の節目の慰霊巡拝、最愛の娘の死

取材・文/中山み登り 撮影/佐々木みどり