■戦後70年目に綴る夫への恋文
94歳になったツチヱさんの毎日は、実に規則正しい。
「7時10分に起きて、カボチャのスープをこしらえて、10時から新聞を読んで、11時からお昼寝─」と、すらすら答えられるほどだ。毎日1時間の草むしりに、3日に1度の掃除・洗濯など、家事も自分でこなす。
「だから、足が悪いくらいで、いたって健康なの」
長寿の秘訣は、規則正しい生活と、適度な運動。そして、もうひとつ。
「テレビのクイズ番組が大好きで、こないだは宇治原くん(ロザン)と競争して勝ったの! 『魘される(うなされる)』の読み方で」
漢字の知識は舌を巻くほど。新聞のクロスワードパズルを解くのも日課で、頭のトレーニングも欠かさない。
そんな日常を、「ご褒美みたいな毎日」とたとえる。勝彦さんと同居できたことも、大きなご褒美だろう。
11年前、定年を迎えた勝彦さんは、“父親との約束”を守るため、郷里に戻り、母親と暮らすことを選択した。
「親孝行ですね」と水を向けると、「そう言われるの、実は嫌なんです」と勝彦さん。
地元の大学を卒業後、東京の精密機器メーカーに就職した勝彦さんは、14年に及ぶアメリカ駐在をはさみ、生活の基盤を東京に置いていた。
「だから、おふくろとはめったに会わなかったし、同居してもおふくろが長生きしてくれなければ親孝行どころか親不孝な息子だったわけです」
そして、「親孝行」と言われることに抵抗があるのは“いちばんの親孝行”がいたからだ。
「それが、妹の洋子です。洋子とおふくろは姉妹のように仲のいい母娘でした。おふくろの近くで暮らすため、洋子は地元の男性との見合いで結婚を決めたほどです」
その洋子さんは、53歳の若さで、この世を去った。がんが見つかったときには、手の施しようがなかったという。最愛の娘を失ったツチヱさんの落胆は、言葉に尽くせないほどだった。
しかし、17年が過ぎ、ツチヱさんは悲しみの言葉のかわりに、1枚の絵を見せた。
「洋子の孫、私にとってひ孫が描いた絵です」
1輪の花の絵は、小学1年生が描いたとは思えぬほどの味わいがあった。仁九郎さんも洋子さんも、たいそう絵が上手だった。2人の面影は、今もひ孫の中に息づいているのだ。
教師を定年退職後は、ボランティア活動をする婦人団体や、地域の婦人会で会長を務め、糸島郡遺族連合会でも女性部長を20年務め上げた。
「すべていい経験。だから、お役を引き受けようか、相談されたときは必ず言うの。やろうか、やるまいか迷ったときはGOよ! って」
最近は、講演の依頼も舞い込み、94歳にして自らに「GO!」サインを出した。
勝彦さんが初講演の舞台裏を明かす。
「講演の前日、おふくろはかなり落ち込んでいたんです。自分で準備した原稿を練習したらこれがひどい棒読み。僕にダメ出しされて。ところが当日、原稿なしで臨んだら、見違えるように生き生きと話す。アドリブまで交えて。足が悪いのに、1時間立ちっぱなしで、水も飲まずに。いやあ、本番に強いなと(笑い)」
ツチヱさんが話を継ぐ。
「私が話すことで、みなさんが喜んでくれると、張り合いが出ます。この年になって、夫が花を持たせてくれているようで、感謝しています」
だから今日もツチヱさんは、恋文を書く。
《流れる雲よ、心あらば私の思いを伝えておくれ。
遥か遠いニューギニアのジャングルの中に
今も尚眠る貴方に届けたい。(略)
有難う!! 有難う!!》
間もなく70回目の終戦記念日を迎える。多くの尊い命を犠牲にして手にした「平和」の重さを、私たちは決して忘れてはならない。
※本記事は『週刊女性PRIME』用に3編に分けて再構成しています。
〈前編〉94歳の恋文が話題――初対面の結婚式で、夫に恋をしました
〈中編〉94歳の恋文が話題――ようやく届いた夫の手紙には“武器をくれ”と
取材・文/中山み登り 撮影/佐々木みどり
〈筆者プロフィール〉
なかやまみどり ルポライター。東京生まれ。晩婚化、働く母親の現状など、現代人が抱える問題を精力的に取材している。主な著書に『自立した子に育てる』『仕事も家庭もうまくいくシンプルな習慣』(ともにPHP研究所)など。中学生のひとり娘を育てるシングルマザー。