“作”でなく“創”をやろう!
富良野に移住して3年目に書いたのが『北の国から』だ。放送されると、倉本さんのもとには、たくさんの手紙が届いた。
「芝居を学びたい」という若者たちの熱意に打たれた倉本さん。なんと私財を投じて、脚本家や俳優を育成する私塾『富良野塾』を'84年に立ち上げてしまう。
2年間の受講料はタダ。その代わり、廃屋を自分たちで改修し、夏場の農作業で1年分の生活費を稼ぐ。
「僕はテレビに育てられたから、恩返ししようと思ったんですよ。それと今のテレビは何しているんだという怒りもありました。儲かっているくせに、役者もライターも育てないから」
倉本さんはテレビの脚本を書きながら、年間50回以上の講義を行った。'88年には塾生の手でスタジオ棟が完成。『谷は眠っていた』『今日、悲別で』など数多くの芝居を創り、国内外で公演した。
「創作の“作”というのは知識と金で前例に基づいて作ることだけど、“創”は金がなくても知恵で前例にないものを生み出すこと。だから、創をやろうと話したんです。肉体的にも精神的にもキツかったけど、生徒よりも僕が得たものは大きかったと思いますよ。舞台って生鮮食品なんですね。お客さんの反応がよければ、芝居もどんどんよくなっていく。それが楽しくて、ほとんどの旅公演にもついていったんです」
2010年に富良野塾は閉塾した。26年間で卒業したのは375人。そのうち3分の1が脚本家や俳優として活躍している。
卒業生を中心に『富良野GROUP』を結成。今も定期的に公演を続けている。
富良野塾9期生で俳優の納谷真大さん(47)は、普段の倉本さんは“とてもやさしい”という。
「富良野塾を卒業したあとも先生の家に行くと“飯食っていけよ”と言って、いつも僕の生活のことを気にかけてくださいました。そんなやさしい先生が、稽古に入ると、とにかく恐ろしい。怒鳴られたことも何度もあります。
僕は自分でも劇団をやって演出をする立場でもあるけど、今も倉本先生の芝居に出ると、出会ったころと変わらないエネルギーで本気になって、僕の芝居をよくするために怒ってくださる。正直、ツラいし逃げ出したいけど、先生がいなければ今の私はないです」
取材・文/萩原絹代 撮影/渡邉智裕
※「人間ドキュメント・倉本聰」は4回に分けて掲載しています。他の記事は関連記事にあります。