「体操で飯を食うんか」と母の猛反対
1966年に青森県南東部の太平洋岸の町・階上町で生まれた中田吉光がこの競技と出会ったのは、道仏中学校に入ったころ。国士舘大時代に1976年モントリオール五輪のレスリング代表最終選考に残った経験のある担任の沼田一夫先生に「新体操をやれ」と言われたのがきっかけだったという。
「大学を出てすぐ赴任した道仏中に入学してきたのが吉光でした。私は相撲部顧問の傍ら、産休を取った女の先生に代わって新体操も見ることになったんです。ちょうどそのころ、吉光が文化祭でピラミッドの上から見事な飛び込み前転をしたのを見て、部に入るようにすすめました。自分も素人だったんで、大学の同期が赴任していた弘前工業高校に毎週のように連れて行って練習させてもらったところ、負けず嫌いで前向き、まじめな吉光はどんどんうまくなった。教えがいがありましたね」と恩師はしみじみと当時を述懐する。
前転、後転、宙返りといった技ができるようになる楽しさに加え、6人で一緒に演技する団体の魅力に取りつかれた中田はより競技に力を入れるため、実家から遠く離れた弘前行きを決意。当時は弘前工業が全国トップに君臨していたため、そちらへ行くのが順当だったが、彼は自分に声をかけてくれた先生への義理を重んじて弘前実業高校のほうを選択。あえて茨の道を歩むことになった。
「2年になった途端、部員が1人になってしまったんです。先生が素人含めて1年生10人を集めてくれましたけど、2人しか残らなくてチームは組めなかった。仲間がいないと練習用のマットも出せないんで、器械体操部の先輩に手伝ってもらうしかない。そんな空しい日々を通して仲間と一緒に戦うことの大切さを痛感しましたね」と中田は言う。
当時は個人戦も出ていて、東北チャンピオンにも輝いたが、彼は「団体こそ自分が追い求めるべきもの」だと実感。その信念を貫くため、日本最高峰の国士舘大学行きを志した。
ところが、階上の実家に住む母・静江さんは「お前は体操で飯を食うんか」と猛反対。父・新太郎さんと対峙することになった。
「親父は遠洋漁業の漁船員で、年の大半は家を空けていた。そのときはたまたま帰っていて母や兄弟を2階に行かせて2人きりになった。もともと無口な人だったけど、特に何も聞かずに “お前の好きにしろ” と言ったんです。親父は7人兄弟で高校にも行けなかったんで、息子を上の学校に行かせたい気持ちが強かったんでしょう。父のひと言で母親も納得してくれました。自分も東京に行くなら日本一になってやろうと固く誓いました」
国士舘では入学早々の東日本インカレでいきなり優勝。前途洋々かと思われたが、その後の失敗で一気にBチームに落とされる。2年のときには失意のあまり田舎に帰ろうとまで考えたが、両親のことが脳裏をかすめ、心を入れ替える。3年からは早朝、午前、午後、夜の1日4部練習に取り組むようになり、3、4年時に全日本連覇を達成。「日本一になる」という野望をとうとう現実にした。
教え子の言葉に背中を押され、強豪校へ
卒業後はドイツ留学の話も浮上したが、母の「日本におってくれ」という言葉もあり、東京にある体操クラブ就職を決意。社会体育指導を手がけるつもりでいたが、朝倉正昭部長(’96年アトランタ、2000年シドニー新体操監督)から突然「お前の就職先を断ったから」と予想外の言葉を突きつけられた。
「 “なぜあなたが勝手に断るんですか” と食ってかかったところ、 “お前は学校の先生にならなきゃダメなんだ” と言われたんです。 “今から大阪に行け” と言うので、その足で教育主事のところを訪ねて面接を行い、生野工業高校の非常勤講師の話が決まりました」と彼は急転した進路に戸惑いながらも、大阪へ赴くことを受け入れた。
日本がバブル絶頂に向かっていた’88年春、監督・中田吉光が大きな一歩を踏み出した。住之江の教員寮に入り、電車3本を乗り継いで生野まで通う新天地での日々には戸惑いもあったが、意欲だけはとにかく満々だった。