浪人時代に「国体」出場!
小倉さんは東京都世田谷区の梅が丘中学に進学し、陸上や演劇、生徒会の活動に精を出す。陸上では走り幅跳びで東京大会優勝を果たした。中央大学付属高校に陸上で推薦入学する。
高校時代はインターハイや国体に出場して活躍した。しかし五厘刈りも合宿所生活も嫌で中央大学へは進学しないことにした。そこでかねてから憧れていた上智大学を受験するが不合格に。浪人生活を送ることとなった。
「3日で予備校通いに飽きて、毎朝、予備校へ通うのと同じ時間に家を出て永福町の図書館へ行き、勉強もせずに好きな本を読み漁るようになりました。午後は東京体育館横の陸上トラックで走って。
先輩たちの抑圧から逃れたせいか記録が伸びて、100mを10秒台で走っていました。それでまた国体に出ることになったのですが、その通知書を見た親父に叱られましたね。“貴様! 勉強もしないで浪人中に何やってるんだー”って(笑)」
国体出場後、上智大学を再受験するがはねられる。受験誌の2次募集の広告で見つけた獨協大学外国語学部英文科を受験し、補欠でフランス語学科に入った。
「なんで俺がフランス語と思ったんだけど、そこなら入れてくれるというから(笑)」
父がお祝いにと四谷の中華料理店でご馳走してくれた。小倉さんが懐かしそうに呟く。
「それが父としたたった1度の外食でした。だから、そのときのことはよく覚えています。餃子と焼きそばと瓶ビールでね……。その店も2、3年前になくなってしまいましたが」
大学でも陸上部に入るが、ケガをきっかけに次第に部活から遠ざかる。浪人時代から始めていたバンド活動に傾倒するようになった。
フランス語学科の仲間と組んだバンドでは、ベースとボーカルを担当し、小倉さんの司会も面白いと人気が出た。ビアホールやキャバレーで演奏するようになる。
「当時、クレイジーキャッツのような音楽レベルの高いコミックバンドが全盛で、自分もそれで食べていきたいと思うようになりました。バンドの仲間もついてきてくれると思ったのですが、群馬テレビに入ったとか朝日新聞に決まったとか、1人だけ取り残されたんですよ。やっぱり就職しないとダメかなと……」
掲示板でフジテレビのアナウンサー募集を見て、それもいいなと思ったという。ところが吃音症を心配して家族が反対した。唯一、反対しなかったのが共同通信社でカメラマンとして活躍していた姉の夫。義兄は幼いころの事故で左目を失明していた。
「片方が見えればカメラマンはできる。智昭だってダメなことはない。大丈夫だよ」
その言葉に励まされ、フジテレビを受験し7次試験まで進むが、役員面接で不合格になってしまう。ほかに数社受けるもすべて通らずじまい。途方に暮れていると朝日新聞に東京12チャンネル(現在のテレビ東京)のアナウンサー募集の小さな広告を見つけた。
「競馬」ネタで局アナ合格!
「東京12チャンネルの役員面接では、吃音症を克服したくてしゃべる職業に就こうと応募したと話しました。びっくりされましたね。フリートークのお題が“競馬”で、その段階で合格を確信しました」
というのも、小倉さんは高校時代から近所の府中競馬場の芝や砂の上をトラックがわりに走っていたというのだ。
「当時は今と違い自由に出入りができたんです。馬が可愛くってね。ジョッキーや馬名、馬主の服の色まで覚えていました」
持っている知識を駆使したスピーチは大成功し見事、合格を果たす。
「入社2か月目の研修で、先輩がふざけて次のレースをしゃべってみてと双眼鏡を渡すので、10数頭の未勝利戦を平然と実況したら驚かれ、来週からやってと(笑)」
競馬の実況アナは通常2年以上の経験を要すると言われていたが、小倉さんは次の週から全レースを担当することになる。
「ただ吃音というのはそのときどきによって言葉が変わるんです。競馬放送を始めたころ、僕はカ行がダメでね。でも、よりによってカで始まる馬名が多かったんです。ですから、それをごまかすためにいろんな修飾語をくっつけました。例えばジョッキーの名前を入れて“郷原の右鞭飛んだカネミノブ”とか。そうすると自然に出てくるんですよ。それをきっかけとして、自分の感情も入れてレースをしゃべっていたら、それが名実況になっちゃったんです」
その評判を聞きつけて、当時、大人の娯楽番組『11PM』の名司会者として鳴らしていた大橋巨泉さんに競馬場で呼び止められた。
「僕の競馬番組を手伝ってくれないか」