治安維持法による逮捕者は国内だけで約7万人
2年以上、拘留された者もいる。木村亨さんらほとんどの被告人は、敗戦の年に主に懲役2年、執行猶予3年の判決で釈放された。
元被告人たちは、拷問した元特高警察官を告訴したが、有罪となったのは3名だけ。しかも裁判から30年もあとになって、その3名が特赦によって投獄されていなかったことを元被告人たちは知った。
1986年7月、亨さんをはじめとする元被告人たちが横浜事件の再審請求を開始する。この第一次請求は最高裁で棄却され、ここから長い闘いが始まる。
問題は、戦後のどさくさにまぎれて、司法が訴訟記録などの重要書類を焼却してしまっていたことだ。それが再審請求の大きな壁になっていた。
治安維持法のあった時代とは、どんなものだったのだろうか。
横浜事件国家賠償の証人尋問にも立った、近代日本の治安体制を研究する小樽商科大学の荻野富士夫特任教授が解説してくれた。
「治安維持法は、1925年に、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まるためにできた法律です。1930年代の運用を通じて拡張解釈を進め、本来の共産主義革命運動の激化防止のみならず、やがて宗教団体や自由主義、戦争反対などすべて弾圧・粛清の対象になっていったのです。組織や集団を狙い、メディアに関わる記者や編集者、官僚のグループなども標的にされました」
学生の読書会、社会科学の文献を読む会、プロレタリア文学愛好会、俳句や川柳の会までもがその対象となった。治安維持法による逮捕者は国内のみでも約7万人にのぼり、さらに植民地でも猛威をふるった。
「中心的なリーダーたちは起訴されて有罪になりました。でも、そんなに重い刑ではないのもミソなんです。ほとんどの場合、懲役2年、執行猶予3年。それでも十分、運動をつぶす効果はあるし、喧伝にもなる。だから目立っていたグループは狙い撃ちされやすいんです。私は“えぐり出す”と言うんですが、芽吹いて大きな葉っぱになる前の根っこの部分を摘み取ってしまう。それは、国家にとって不健全、戦争はいけないという事実に気がつかせることはけしからん、ということなんですね」