実の親子以上の強く不思議な絆
「麗華が日本に来たのは、忘れもしない’88年3月14日。パーマ頭でブルーのジャケットを着て、スーツケースを3つ抱えて空港に現れたんです(笑)。埼玉にある私の実家に連れていくとウチの母(恵美子さん)が手をついて“いらっしゃい”と挨拶した。彼女は目を丸くしていましたね。それから4~5年は埼玉と高崎を車で往復する生活を送りました。会社側は当初、“外国人選手は認めない”と頑なで、扱いも臨時職員的な待遇でしたが、麗華の打撃力が傑出していて1年で日本リーグ2部から1部に上がる原動力になったんで、すぐに正式採用の許可が下りました。月給は5万円。私のところに振り込まれるので、通帳をお母さんに渡して管理してもらっていました」と妙子さんは述懐する。
麗華監督と妙子さんの母・恵美子さんは本当の親子のように仲がよく、麗華監督の得意料理であるギョーザを一緒に作ったり、定期的に連絡をとったりと、心温まる交流が長く続いた。恵美子さんが2001年に亡くなったときも、直前に電話で話したのは実娘の妙子さんではなく、麗華監督だったという。
「麗華が親孝行をしてくれたので、母は最期まで幸せだったと思います。実は今、麗華の姉の中2の娘(可月さん)を私たち夫婦が面倒見ているんですけど、いろんな意味で麗華とは強い絆で結ばれている感じがします」と妙子さんも特別な因縁を感じているようだ。
宇津木の名を世界的に有名にする
強固な人間関係があったから、麗華監督も日本国籍取得に踏み切れたのだろう。元軍人の父には反日感情が少なからずあり、最初は娘の決断に反対していた。そこで麗華監督は妙子さんを伴って北京へ赴き、「この人がいるから絶対に大丈夫」と必死に説得。承諾を取りつけることに成功した。「宇津木の名前を世界的に有名にします」とも約束して、尊敬する人から名字をもらったのである。
当時32歳。すでにベテランと呼ばれる年齢になっていたが、大きなリスクを冒して日本人になった以上、ソフトボールで恩返しするしかない。強い決意を胸に秘め、麗華監督は2000年シドニー五輪へひたむきに走った。
シドニーの日本代表は妙子さんが監督を務め、高山樹里、増淵まり子、藤井由宮子ら優秀なピッチャーを擁する好チームだった。背番号28をつけた麗華監督はサードで4番、キャプテンという重責を担ったが、予選リーグラストのニュージーランド戦から、準決勝・オーストラリア戦、決勝・アメリカ戦まで3連続ホームランという離れワザをやってのける。主砲の爆発でチームは金メダルまであと一歩と迫ったが、決勝で1-2という不覚を取り、銀メダルに終わってしまった。
「3連続ホームランも自分の中ではただ頑張っただけ。結果的に金メダルも取れなかった。それなのに、日本に戻ってきたら空港に数えきれないほど大勢の人が集まって、力いっぱい激励してくれたんです。電車に乗っても、普通のおじいちゃん、おばあちゃんから“感動したよ”“あなたが必要だからもっと頑張ってください”と言われて、五輪の影響力の大きさを実感しましたね」
こう話す麗華監督は当時37歳。今でこそ50歳のカズ(三浦知良=横浜FC)や43歳のイチローのようなアスリートがいるものの、女子ソフトボール選手は30歳前後でやめるケースがほとんどだった。
彼女自身、アテネを目指すのは難しいと思ったが、応援してくれる人たちのために頑張らないといけない。そんな気持ちがふつふつと湧き上がってきたようだ。
そして4年後のアテネ五輪にも参戦。2003年から日立&ルネサス高崎(日立高崎から移行)の選手兼監督になっていたことから、日本代表でも妙子監督のマネージャー的役割も兼務。その立場で主砲にも君臨した。
ピッチャーには22歳の上野、外野には20歳の山田恵里(日立)がいたが、麗華監督の存在感はまさに絶大。「いつもサードでどっしり構えていて、打たれると“なんでそんなところに投げたの”と怒られてばかりでした」と上野が言えば、山田も「“プレッシャーは自分たちが背負うから、とにかく思い切ってプレーしなさい”と言ってくれたので、すごく心強かったです」と懐の大きさに感謝していた。若手を後方支援することでチーム力を高めたいという思いを麗華監督は抱いていたのだろう。そのベテランの大活躍もあり、日本は順当に予選リーグを突破。準決勝で中国を破ったが、3位決定戦でオーストラリアに敗戦。まさかの銅メダルに終わってしまった。