ムチウチ症を患いチャンコ長へ
さて、平成7(1995)年の5月場所の『東三段目五十三枚目』を最高に、北斗龍は長い低迷の時代を迎える。
昭和63(1988)年には、当時同じ序二段だった曙と対戦、未来の横綱との格の違いを実感させられている。
「あっという間に転がされた。(曙関)は手が長いでしょ。相撲を取っているとだいたいどこらへんまで手が出るか経験的にわかるんだけど、それ以上にグンと伸びてきた。もう規格外。びっくりしたよ」
『若貴時代』の立役者・貴乃花関に関しても、「もう全然違っていた。別ものだったよね。完成されていて、中学出たばかりの15歳の相撲じゃなかった。並大抵じゃない努力があったから、あそこまで行ったんです。それこそ血反吐(ちへど)を吐くまでやった結果じゃないですか」
さて平成10(1998)年、北斗龍に転機が訪れる。
稽古中に首を痛め、ムチウチ症を患ってしまったのである。2場所ほど休み、それからまた稽古を始めたが、再び首を痛めてしまった。
それを見た北の湖部屋の部屋付き親方(自分自身の部屋を持たず、どこかの部屋に所属している親方)の小野川親方が、北斗龍にこう言った。
「もう稽古するのやめておけ。おれが北の湖親方に言ってやるから、お前はチャンコ番をやれ──」
野球で言えば、戦力外通告を受けたようなものだった。
「もうダメなのか、と。でも正直、もう稽古しなくていいんだという安堵(あんど)感もあった。治れば稽古しようとは思ったけど、ダメだったね……」
入門12年目にやって来た転機。とはいえ、場所に出なければ力士ではいられない。
痛めた首を守るようにして土俵に上がるから、当然、成績はふるわない。序二段の東と西を行ったり来たりが決まりのようになってしまった。
平成12(2000)年には、土俵に上がりつつも、チャンコ長に専念することを決心する。北斗龍が“料理の腕は角界一”との評価を受け始めるのは、これからのことである。
「(2002年に相撲協会理事長に就任した)北の湖理事長から、“お前のやりたいようにやればいいから”と言われたら、適当なことはできないよね。場所に入ると、夜、後援会の人とかが部屋にチャンコ食べに来たりするでしょう。理事長も一緒に食事するし、ヘタなものは作れない」
チャンコというと、いわゆるチャンコ鍋が頭に浮かぶが、相撲部屋で食べる料理はすべてチャンコという。
さまざまなチャンコがあるが、北の湖部屋のいわゆるチャンコ鍋は、塩味で、滋養たっぷりの豪快なものだという。
「鶏ガラで4時間ぐらいかけてだしをとるの。そこに、塩と企業秘密と(笑)、大根、にんじん、玉ねぎ、糸コン。それからキャベツに油揚げ、キノコ類やごぼう。そこに鶏団子。そんなもんかなあ」
3月の大阪場所の際に、北の湖部屋の宿舎になっている大阪は成恩寺(じょうおんじ)の住職夫人は、丸山さんのチャンコの腕を、こんなふうに評価する。
「何を作ってもおいしいです。お魚のアンコウも自分でおさばきになられるし、ふぐもさばけるんじゃないかしら。
うちの寺では3月最初の日曜日に、『ふれあい会』ということで、地域と檀家の方々に、お餅と、それからチャンコを500人前振る舞うんですけど1時間でなくなります。
これまでいくつかのお部屋のチャンコをいただいたことありますけど、丸山くんのが一番おいしいと思います」
北の湖部屋の弟弟子であり、丸山さんの右腕ともいうべき副チャンコ長だった元・大天祐こと山田智秋さん(37)も、
「チキン南蛮とか魚の漬けとかが本当においしかった。
北の湖部屋では、親方と関取衆が入ると、ちょっと給仕したら“すぐ食べろ”って感じでみんなでワイワイ食べるんですが、みな、おいしいおいしいと食べてました。
急にお客さんが入ったりすると、“あ~めんどくさい”とか言いながらもちゃんとおいしいチャンコを作りますから(笑)、本人も料理を作るのが好きなんだと思います。角界一という評判? 自分もそのとおりだと思います」
丸山さんを知る人すべてが料理の腕を口をそろえてそう絶賛する。まごうことなく角界一の腕前なのだ。それも、北の湖親方がいればこそ。しみじみと丸山さんが言う。
「チャンコ番として相撲を続けられたのは、北の湖部屋の若い衆だったから。ほかの部屋だったら、やっていないし、ムチウチになった時点でやめていると思う。そうしなかったのは、親方の人徳、懐の深さだったんだよね……」