光秀が信長の命により築いた坂本城について、宣教師ルイス・フロイスは「豪壮華麗で信長の安土城に次ぐ城」と書き残している。彼は忠臣だったのか、腹黒い策士だったのか。はたして、その素顔とは──? 光秀が残した文書から推測できる珍エピソードの数々、ご堪能あれ! 監修は、作家で歴史エッセイストの堀江宏樹さんです。
くるのは“麒麟”ではなく“借金取り”!?
《1》比叡山焼き討ちはノリノリだった!?
織田信長から命じられ、泣く泣く従ったと描かれがちな「比叡山焼き討ち」。ところが、「(延暦寺に味方する)仰木家の勢力は皆殺しにしてしまえ」などと手紙にしたためていることから、光秀は案外ノリノリだった可能性が。
というのも、比叡山延暦寺は、並の戦国大名以上の13万石もの石高を誇る超セレブリティー。ここで戦果を挙げればひとり占めも夢ではない!
そう考えたかは、光秀のみぞ知るところだけど、果敢に攻めたて、当時、もうひとりの上司だった室町幕府最後の将軍・足利義昭から「やりすぎでは」と責められるまでに(このとき光秀は義昭の家臣でありながら、織田家の仕事もこなすダブルワークの最中だった)。
しかし! なんと光秀、あろうことか将軍に逆ギレし、織田家に「正社員」として転職してしまったというから恐ろしい。このころから“謀反(むほん)癖”があったのかも。
《2》信長は光秀の集金力を評価した!?
織田家で出世を重ねていく光秀。その大きな要因となったのが、彼の集金力。信長の評価軸は武勲だけではなく、戦に勝つために必要なお金に対しても目を光らせていたそう。織田家の奉行として、京都政策を任された光秀は、朝廷のお偉方にいい顔をしたい信長のために、とんでもない集金方法を考えつく。
あろうことか京都の町民たちに、米を年率30パーセントの高額利子で無理やりに貸しつけ、浮いた利益を信長に献上していたというのだ。そのお金を貧苦にあえぐ朝廷に上納し、御所の壁は見事に修繕。
『麒麟がくる』というよりも、町民たちは“借金取りがくる”感覚に近かっただろうに……。えげつないメイクマネー能力を思いつく光秀を、信長は大いに評価したという。