総合リサイクルショップの経営で大成功を収め、人気番組『¥マネーの虎』の名物社長として一躍有名に!何度も倒産を経験しながら不屈の精神で這い上がった波瀾万丈な過去を持つ社長は、コロナ禍でも新たな挑戦と中古業界の改革に燃えていた。元妻との息子、元恋人やその夫とも良好な関係を続ける、物も人も「捨てられない」独特の人生観とは―。

9人兄弟の一人息子で可愛がられた幼少期

「見てください、この洗濯機の排水ホース。めちゃくちゃきれいでしょ!」

 排水が通る内側が見えるようにホースを持ちながら、そう話すのは、静岡県浜松市に本社がある、総合リサイクルショップ「創庫生活館」代表の堀之内九一郎(きゅういちろう)さん(74)だ。

 店内奥の作業場には中古の洗濯機が所狭しと並んでいるが、ドラムやホースといった部品が取りはずされている。

「お店に陳列する前に、全部きれーいに掃除しますから。ドラムもほら、ぴっかぴかでしょ。破損した部品があれば、きっちり取り替えますよ」

 取材したのは10月だったが、半袖のTシャツとデニム。ロッカーのようないでたちの堀之内さん。かつては人気テレビ番組『¥マネーの虎』の“虎”(出資者)を務めたプロ経営者だ。毎回、やりたい事業をプレゼンする人が出演し、事業家たちがこれぞという人に出資する番組。堀之内さんは出演回数が最多だった。

 現在、全国に直営店19店舗、フランチャイズ店80店舗を持ち、年商は6億円にのぼる。最近は、社内にスタジオを設け、自身のYouTubeチャンネルを更新する。

 一見、順風満帆に見える堀之内さんだが、不遇の時代があった。自殺を考えるほど借金まみれになり、一時はホームレス同然の状態だった。どのようにどん底から這い上がったのだろう。

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 堀之内さんが生まれたのは、戦後間もない1947年10月。鹿児島県鹿屋市である。太平洋戦争中は特攻隊の基地があり、多くの若者がここから飛び立ち敵の軍艦などに体当たりし、命を落とした。

 9人きょうだいの末っ子。9人目に待望の男が生まれたので、「九一郎」と名づけられた。菜種油などを作る製油所を営む父親は一人息子を可愛がった。

「真冬でもオムツも全部はずして素っ裸で抱いていたみたいです。素肌で温めてあげたいと思っていたんでしょうね」

 わるさをしても叱られることがなかった。幼いころから機械いじりが大好きで、当時高級品だったラジオや自転車を分解してそのままにしても、おとがめなし。手先が器用で、なおかつ機械が動く仕組みに興味があったのだ。

 小学5年生の夏休みの宿題には忘れられないことがあった。自ら切り出した木でお盆を作り、盆の真ん中には写実的な海老の絵を描いた。

堀之内九一郎さん 撮影/齋藤周造
堀之内九一郎さん 撮影/齋藤周造

 自信満々の作品だっただけに、先生の言葉に耳を疑った。

「お前の作ったもんじゃない。大工さんに作ってもらったんだろ」と叱られたのだ。がっかりして、ことの顛末(てんまつ)を父親に話すとこう褒められた。

「それはよかったな。プロが作ったみたいだと言われる、そんな名誉はなかなかない」

 それを聞いて、自分の腕はすごいのだ、俺はできると「自信」を持てるようになったという。この自信が、その後の堀之内さんを支えていく。

 高校は機械科のある県立鹿屋工業高校を志望する。先生に「絶対に無理だ」と言われたが猛勉強をして合格した。

 高校卒業後は、大阪の堺化成工業に入社。得意の機械メンテナンスの部署に配属され、やりがいを感じて仕事をしていたのだが、4か月後、父親が亡くなる。急きょ実家に戻り家業を継ぐことになった。家業は製油所だけではなく、雑貨店、数百頭はいる養豚所も営んでいた。

「ただ、私の夢は鉄工所を開くことでしたからね。製油所も養豚も面白みを感じないし、しんどいだけ。だから両方売り払ってしまいました」

 売却して得たのは、いまの価値に換算すると、2億円。それを鉄工所につぎ込んだが、経営のイロハもわからない若造には荷が重かった。早々に暗礁に乗り上げる。

 それ以降、いろいろな事業に挑戦するが失敗ばかり。

 家電販売業を3年間営むが、不渡りを出して倒産。

 太陽熱温水器の販売もした。オイルショックの影響で高くなった石油を節約したいニーズが高く、最初の数年は売り上げ好調だった。しかしそれで楽勝と思ったのか、遊びの虫がうごめき始めた。ラジコンにハマったのだ。1機10万円ぐらいするラジコンを買っては飛ばしに出かけた。

「面白くて、仕事なんか手につかなくなってしまってね。仕事は社員に任せて遊びほうけているうちに、気がつくと仕事はにっちもさっちもいかなくなっていました」

 遺産は事業の失敗、飲み食いにも費やし、あっという間に食いつぶしてしまった。