「たまに“若い人を育てている”と言われるんだけど、自分では“近所のお節介なおばちゃん”みたいなものだと思っている。あと、昔から、“正義”を振りかざす人や、やたらと倫理を重視する考え方に対して批判的で、違うことは違うと言いたいタイプ。でも、お節介なご意見番って、いちばん煙たがられるんだよね(笑)」
ゲイのライター・評論家としてデビューした伏見憲明
32年前、『プライベート・ゲイ・ライフ』(学陽書房)を刊行し、ゲイのライター・評論家としてデビューした伏見憲明。20年前には初めて書いた小説で第40回文藝賞を受賞し、これまで数多くの著作を世に送り出している。
一方で、伏見には「新宿二丁目のバーのママ」としての顔もある。50歳のときにオープンしたバーには、10年たった今も、老若男女、セクシュアリティを問わず、さまざまな客が訪れる。
くしくも10年ごとに新たなことに挑戦してきた伏見だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。私は、伏見とは30年の付き合いになるが、人一倍情に厚く、優れたバランス感覚の持ち主でありながら、非常に誤解を受けやすい人だとも感じている。
そんな彼は、還暦を迎えた今、何を思うのか。起伏に富んだ半生を振り返りつつ探っていきたい。
「オトコオンナ」と言われて
伏見は1963年、東京都で生まれた。物心ついたときから、一人称は「あたし」。野球よりもバレーボール、少年漫画雑誌よりも少女漫画雑誌を好み、「オカマ」「オトコオンナ」などとからかわれた。
「僕が好きなことをやろうとすると、周りの大人たちが困ってしまって、なんとか僕を『普通の男の子』にしようとする。“バレーボールじゃなくて野球をやりなさい”と言われたり、通知表に『もう少し男らしくしてほしい』と書かれたりしたこともあった。ただ、母から自分がやりたいことを“やめなさい”と言われたことはなかった。僕の自己肯定感が保たれたのは、母のおかげかもしれない。誰かに肯定されるって、とても大事なんだよね」
初めて同性への恋心を意識したのは中学生のときだったが、その相手とは「大親友」止まり。「ゲイの街」として知られる新宿二丁目に初めて足を踏み入れ、そこで出会った男性と性的な関係を持ったのは、高校3年の夏だった。
ミュージシャンを目指し、音楽高校に通っていた伏見だが政治にも興味があり、サークルやミニコミ誌を作ってネットワークを広げているうちに、政治家・運動家の小沢遼子らと知り合う。やがて伏見は、ゲイ・リブ(同性愛者の社会的差別や抑圧などを解消しようとする活動)に関心を抱き、ライブでもゲイとしてトークをするようになる。
伏見にテレビ出演の話が舞い込んだのは'87年のことだった。当時、伏見は就職せず、実家に住みながら塾講師などのアルバイトをしていた。はっきりと伝えてはいなかったものの、母親は伏見がゲイであることにうすうす気づいており、父親はその直前に、がんで亡くなっていた。
伏見がテレビ出演を決めたのは、ゲイのミュージシャンとして世に出るための、ひとつの足がかりになるかもしれないと思ったためだ。しかし、親族から猛反対にあい、伏見はやむなくテレビ出演を断念することとなった。